『江の生涯』の感想 その二(東福門院和子の母代)

前回の感想続きでございます。次は東福門院和子について、福田さんの説の感想を
書いていきます。

ちなみに人物の名前についてですが、わかりにくいので、私の感想ではこの本の表記の
とおりにはせず、一般的な呼び名のほうを使います。
この本だと徳川秀忠の五女で後水尾天皇の中宮になった人を「和」と書いてありますが、
幼名(入内前までの通称)が「松(姫)」、諱が「和子」であって、「和」という名前で
呼ばれたことはないんじゃないですかね。
この場合の「和子」の「子」はちゃんと諱として命名された名前の一部なんだから、
取っちゃだめだろうと思うんですけど。
幼名及び通称に、後世「子」をつけて呼ぶようになったわけではないはずです。
もしこの本の方法で統一したいなら、幼名の「松」を使うしかないと思います。

この本の中で、妙徳院という女性について紹介されていて、この人が和子の母親だと
あります。しかしあくまでも本に紹介されている記述のみの感想ですが、あえて
和子の生母と解釈しなくてもいいような気がします。
江戸城大奥に数年、おそらく和子に仕えて、功績があった人という受け取り方でも
特に問題ないように思うのですが。拝領した四箇村といっても石高は書いてないし。
それに城主を父とする女性なら、それ相応の身分がありますから、徳川家の記録に残す
価値がないとは思えません。もし真実生母であるなら当然記録に残るはずだと思います。

そして福田さんにしろ、引用されている小和田哲男さんにしろ、江が数え34歳で忠長を
産み、数え35歳で和子を産んだことを「高齢を考えれば連年の妊娠は避けたほうがよいと
する判断」「生理的に無理があり」という言葉で否定していますが、どうなんでしょう。
他の歴史上の人物で高齢で年子の例を探してみました。単純に高齢出産しただけなら、
藤原穏子とか源倫子とかすぐに出てくるんですけど、年子はなかなか見つからないなあ
と思っていたら、意外に身近なところにいました。後水尾天皇の典侍・逢春門院櫛笥隆子
が数え36・37・38歳で出産してます。この人は後西天皇の生母です。
また平安時代には醍醐天皇皇女で藤原師輔の妻の雅子内親王が数え33・34歳で産んでます。
藤原師輔には他にも高齢出産で年子を産んだ妻・康子内親王もいますが、この人は数え36・
37歳で産んで、37歳の出産の直後に亡くなっているので例としては不適当ですね。
医学が発達していなくても、母子ともに生存する可能性が低いだけで、0ではないと
思います。したがって、実際は産んでないとする確たる史料がないのに、高齢出産だから
産めるはずがないと否定するのもどうかと思います。

そしてまた「江がよく言われるように自分の乳で国松を育てていたとすれば」と忠長の
乳母の存在を否定するようなことを言ってます。
妙徳院の話は簡単に受け入れるのに、忠長の乳母の話はまるきり無視するのはどういう
判断基準があるんでしょう。
「江が忠長を乳母をつけず自分で育てた」というのは、実は現代になってできた説なの
ではと考えてます。江が忠長を偏愛する理由として、乳母制度に違和感をもつ現代人が
こじつけで作ったのではないでしょうか。
また母乳をあげた場合の排卵再開は個人差があり、遅くなる人もいれば母乳をのませない
人と同じぐらい早い人もいるようです。江が乳をあげていようといまいと、年子で出産する
可能性は0ではありません。

和子が入内するときに阿茶局が母代となって付き添い、江が付き添わなかったことを
江が和子の生母ではない根拠の一つにされています。
なぜ江ではなく阿茶局だったのか、その理由は案外簡単なことかもしれません。
「和子に母として付き添う役目は、初めの入内の一回のみではなかったから」では
ないでしょうか。
人物叢書の久保貴子著『徳川和子』には、和子の生んだ女一宮が祖母の中和門院の御所に
渡御したとき、阿茶局もいたと書いてあります。この場合は和子ではなく、女一宮の
付き添いですが、宮中の慣習として、おそらくしばしば天皇の后妃に「里の母」の存在が
必要だったのではないでしょうか。
平安時代の話ですが、例えば藤原彰子が出産の後再び内裏に戻るとき、供の中に母の
源倫子もいます。紫式部日記にこのことは載ってます。
入内というのは嫁入りと同義ではなく「后妃が内裏に入ること」ですので、なにか理由が
あって内裏から里に帰り、また内裏に戻ってくるときもやはり「入内」です。
そういう入内の際も実家の母が付き添うことがあるのです。
素人ですので、近世の宮中の慣習についても当然疎く、断言はできませんが、このように
母代が何度も必要になった可能性はあるんじゃなかろうかと考えます。
阿茶局が常に宮中にいたのか、必要なときだけ上洛したのかわかりませんが、いずれに
しても、里の母という名の筆頭女房だったのだと思います。
そして幕府としては、その度に将軍の御台所を京に上洛させるわけにはいかなかった
のでしょう。もし徳川幕府が京都にあったら、江でも和子の付き添いを何度もすることが
できたのでしょうが、江戸にいては、将軍の御台所は簡単には動かせないだろうと
思います。
そして幕府は、母である御台所の代理として、阿茶局が一番ふさわしいと考え、彼女を
母代としています。
源氏物語では、明石の姫君が初めて入内するとき、養母の紫の上が、実母の明石の御方に、
入内の付き添いを譲る場面があります。
もし本当に和子に江以外の生母がいたとしたら、その女性に母代の役目をゆだねても
いいような気がしますけど、そうはしなかったようですね。

寛永九年の江の七回忌の際に、和子から香典が送られた記録がないこともまた、江が
和子の生母ではないことの傍証としているようです。
『徳川実紀』には、寛永十九年の十七回忌、慶安元年の二十三回忌に和子から香銀が
送られたことが載っています。今まで無沙汰していた和子が、突然養母のために香銀を
送りはじめたのでしょうか。
生母であれ、養母であれ、母のために法要のたびに香典を送ることは必要なことだった
と思います。当然記録があろうとなかろうと和子は香典を送っていたにちがいありません。
香典を送ったことそれ自体では、生母か否かは判断できないと思います。
しかし香典を送った記録がないという部分だけを取り上げて、生母ではないと断言する
のはおかしな話のように思います。

なんだかこの本では、「表向きの母」・養母との交流・付き合い方について、妙な説を
展開しているような気がします。いくら時代によって常識が変わるといっても、理解
しにくい話があって、実は江の子供問題以上にそのことがすごくひっかかります。
その点についての疑問は、いずれまた詳しく書いてみたいと思います。

和子についての感想はこんなところでしょうか。次は勝姫についてか、一度子供問題を
離れて、同意できるところ興味深い点について語るか、どちらかにするつもりです。

※和子の寛永十九年・慶安元年の香典について、出典元情報と引用はこちら

※次の感想(その三・勝姫)はこちら、前の感想(その一・家光)はこちらからどうぞ

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