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zoom RSS 氷川神社と大宮公園展

<<   作成日時 : 2015/04/27 00:46   >>

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お久しぶりです。こんばんは。
先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館へ氷川神社と大宮公園展を見に行ってきました。そのときの感想です。

学芸員の方の解説があるというので、それに合わせて行きました。

まずは氷川神社周辺の古代の遺跡について。弥生時代までは住居があったが、その後平安時代までは遺跡はなく空白だったとのこと。奈良時代は氷川神社周辺に人は住んでなかったらしい。古くから祭祀の場だったことは間違いないそうです。
氷川神社の歴史について。祭神がイザナギイザナミ説の文書が展示されてました。古い文書らしいですが、アラハバキが出ているのでいまいち疑問が残るような。アラハバキって氷川内記が奉じてた門客人神社の祭神とすると、実は近世の文書なのかなとも思ったり。中古の延喜式の1座という記録から近世までに3社に変わった話もあり、また丈部直不破麿の話も出ました。丈部直不破麿が恵美押勝の乱で活躍したため、氷川神社の地位も上がっていったという話でした。

また近世までは神仏習合だったという話もあり、観音寺についての話もありました。明治に入って廃仏毀釈のときに、観音寺の住職が西角井家の社人になるよう誘いがあったそうです。この話は不勉強にも初めて聞きました。結局それは住職が断ったそうですが、たしかに坊主が神職にはなりたくないですよね。
江戸時代の境内の図が三枚展示してありました。参道がかつて中山道だったと言われている話をした後で、学芸員の方が、その説には懐疑的な言い方をしてました。でも、私思うに、古くは途中まで参道と中山道が一緒だったのを、一の鳥居の手前で中山道と参道を分けたという話なんじゃないかと思います。
幕末から明治にかけての話。突然明治天皇の行幸が決まったらしく、その準備の様子が大変そうでした。また鳥居に本地聖観音とあったことに対して突っ込み入れられた話も出ましたね。また、明治天皇の行幸までに体裁を三社から一社に変更する必要があったらしく、無理やり男体社前にだけ参道を引いたという話も聞きました。またこのときの行幸絵巻を描いた山田衛居は川越氷川神社の婿養子だったとか。

大宮公園は昔旅館やホテルがあったそうです。ちょっとした保養地・観光地っぽかったそうで、今を考えると意外な話でした。こんなとこに泊まるなんて変な感じです。でも昔あったという遊園地ホテルとか、なんでなくなってしまったんでしょうね。正岡子規とか浅井忠とかが大宮公園の旅館に泊まった話は興味深かったです。
氷川神社は明治に一社として祭られ、さらに昭和で改築して今の建物になったそうです。だんだん規模が大きくなっていくのがすごいです。
最後、北沢楽天が絵を描いたという手ぬぐいが展示してありましたが、その絵がかわいかったです。

全体的に解説は面白かったけれど、江戸時代までの話で私にとって新発見の話はほとんどなかったです。でも本職の方からの説明はわかりやすかったですね。
解説が終わったあと、もう一度展示を見てあれこれ確認。いろいろと興味深かったです。

今回は時間が足りなかったので、常設展は見ないで企画展のみ見ました。でも見に行った甲斐はありました。面白かったです。

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