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zoom RSS 家光と忠長の確執について私見

<<   作成日時 : 2011/09/24 22:15   >>

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『江の生涯を歩く』を読んだ感想として家光と忠長について書いていたら、あまりにも長くなったので、記事を分けることにしました。
まずは忠長の非行〜自刃について自分なりの仮説を説明していきたいと思います。
以下は素人の妄想が炸裂しております。その点を踏まえた上で、気になる方はお付き合いくださいませ。なお読み終わって共感できない方は、ごめんなさい、そういう考え方をする奴がいるんだなとのみ思っていただけたらありがたく存じます。

忠長自刃について、原因を幼少期の後継者争いにまで遡る必要はない、というのが私の考えです。むしろ幼少期の後継者争いはないとしたほうが、非行の噂から処罰、改易・自刃までの期間の長さが説明つくと思います。

そもそものきっかけはなにか。私は、幼少期の後継者争いではなく、徳川実紀にあるように寛永三年に忠長が大井川に橋を架けた事から始まったのではないかと思います。
大井川に橋を架けないのは、東海道を敵が簡単にやってきて江戸を攻めてこれなくするためと言われてますが、その大井川に忠長は橋を架けたわけです。これは幕府に無断で臨時におこなったことであり、それによって忠長は家光にとがめられています。
家光は、無断で行なったことを咎めており、忠長は、許可よりも利便性を優先しています。
この考え方の違いによって出来た溝が最後まで埋まらなかったことが、自刃にいたる根本的な原因だと思います。

江の宮殿が最近発見されましたが、その際、忠長が幕府に無断で霊廟を領地に建てて、そのせいで増上寺の法要に参列できなかったことも伝わっています。忠長はこういうフライングをよくしていたのではないでしょうか。大名の統制を強めている幕府からすると、こういう好き勝手する大名は目に余るはずです。特にそれが将軍の弟であれば、なおさら。
しかも運が悪いことに家光は蒲柳の質で、このとき跡継ぎがいません。寛永六年には痘瘡を患っています。家光になにかあったら忠長が将軍になるわけです。ルールを守らない人間がトップの座につくのは、幕府にとっては由々しきことなのではないでしょうか。

忠長の非行がいつから始まったのかよくわかりませんが、彼の非行の逸話を見ると、自信をなくした男性の行動のように思えます。無駄に居丈高になり家臣を追い回すところなど。よかれと思ってしたことが、無断で行なったために咎められて否定されることが続いて、自信をなくしてしまったのではないでしょうか。あるいは兄の痘瘡によって自分が将軍になれる可能性を一瞬でも夢見て、でもそれが叶わなくて今の将軍連枝の立場に不満を持つようになったのかもしれません。

後に自刃するために、尾ひれがついた噂が定着してより酷い悪評が残ってしまったところもあるでしょうが、実際に殺されている家臣もいて、どこまでが真実かはわかりません。しかし処罰されるような事件が起きたことは間違いないのでしょう。それが原因で寛永八年に秀忠によって蟄居を命じられます。そして蟄居のまま寛永九年一月に秀忠が死去します。その後も忠長は無断で寺を建立してしまいます。結局問題点が改まらないまま、その年の十月に改易を家光から命じられます。そして寛永十年十二月に忠長は自刃します。
改易から一年後の自刃については、やはり家光が病弱で跡継ぎがいないことが影響したのだと思います。

忠長の処分はかなり長い期間かかっています。幼少期に後継者争いがあったら危機的状況になったとして、もっと早く処罰してると思います。しかし実際は秀忠が死んだ後も、家光はなかなか忠長を処分しようとはしません。やはり家光は、忠長が反省して態度が改まることを期待していたんだと思います。そういう弟への信頼は、もし争いがあったら存在しないと思いますが、どうなんでしょう。

とりあえずはこんなところです。いいたいことを書き出しただけなんで論理的じゃありませんが。
明らかな間違い等がありましたらご指摘ください。

なお、こういうことを考える私の考えの基本は、江の偏愛説の否定です。
そのことについても言いたいことはたくさんあるので、引き続き書いていきたいと思っております。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんわ。
大井川の件は始めて知りました。霊屋の件も「将軍家の」生母(正室)の供養ですし、軍事面・防衛面での問題でもある架橋となると、「将軍家をないがしろにしている」と見られかねない行為であるように思います。これらを考えるに、忠長の悲劇的な最期は、幼少期の関係に起因するというよりは、将軍と自分は「君臣」という意識が乏しかったゆえのような気がします。
しょうよう庵(喧々あらため)
URL
2011/09/26 00:11
忠長と忠直の非行ってなんか似ていますね。
決定的に違うのは忠長は殺され(切腹)、忠直は大分に流されても長寿を全うできたことですが。
じょうよ
2011/09/28 09:28
しょうよう庵さま
こんにちは。主観丸出しの記事を読んでくださってありがとうございます。
大井川の件は忠長関連で時折言及されることはありますが、幼少期の世継ぎ争いの延長にある出来事の一つとして捉えられることが多いです。問題のきっかけという捉えられ方はあまりされてないですね。
「将軍家をないがしろにしている」ように見える行為を、自覚なしで(悪気がなく)行なっていたのが問題だったんじゃないかと私は思ってます。身内であることの甘えがあったというか。そういう意味で君臣の意識が乏しかったのでしょう。
あまのかるも
2011/09/29 23:17
じょうよさま
こんにちは。主観に満ちた記事をよんでくださりありがとうございます。
忠長も忠直も非行の噂の元になった出来事はあったとしても、誇張され余計な尾ひれがついてしまい、その付け加えられた創作部分が似ているのだろうと思います。
決定的な違いが生じた理由は、忠長のほうがより将軍の位に近かったからだろうと推測してます。このころ家光には息子がいないので、家光になにかあったら次の将軍は忠長が最有力ですから。
あまのかるも
2011/09/29 23:28
忠直は大坂の陣で活躍しながらもそれほどの恩賞がなく、制外の家といわれながらも御三家よりも席次など格下に扱われていたそうです。(シリーズ藩物語福井藩参照)
ちゃんと調べていませんが、忠長も同じことがいえるかもしれません。
御三家は家光より年下ですし、家康の実子ですから、仮に家光が死んでも、将軍は御三家にという可能性もあります。家康大好きな家光ですから。家綱が生まれる以前、家光はだれを後継者にしていたか興味があるところです。
あまのかるもさんの正室の出身のお話は炯眼だと思います。尾張徳川家の義直の正室は浅野幸長の娘、紀州徳川家の頼宣は加藤清正の娘ですから。(水戸徳川家の頼房は正室なし)
じょうよ
2011/09/30 04:36
じょうよさま
兄である秀康の家系が、将軍家だけでなく弟の御三家よりも格下というのが、忠直には納得いかなかったのでしょうね。
忠長はそれに比べれば恵まれている感じですが、徳川家中・幕閣内の感覚としては家康の息子で年長の御三家を重んじる風があったのかもしれませんね。この辺りになるとますます知識が疎くなるので確信はないですが。
御三家の上二人のほうが、忠長より正室の家格は上なんですね。『江の生涯』によると家光の正室候補に黒田家の姫もいたそうですし、その辺りと比べると忠長の正室の家は見劣りがしますね。そういう観点で考えるとやはり、家光より忠長を将軍にという意志が、江やその周辺にあったというのは考えにくいです。
あまのかるも
2011/10/02 12:48

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