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zoom RSS 江の偏愛説についての私見っていうか反論

<<   作成日時 : 2011/09/24 22:18   >>

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というわけで、前の記事・家光と忠長の確執について私見に引き続き、江の偏愛説について私見を書いていきます。
江が忠長を偏愛して家光を疎んじ、家光に代えて忠長を世継ぎにしたい願ったという俗説に対する、個人的な反論です。素人の妄想ではありますが、気になる方はお付き合いください。

まず世継ぎ争いがあったといわれる時期はいつなのでしょうか。
家康から江への訓戒状は、徳川義宣さんの説によると慶長十七年二月二十五日付とのことです。家康と豊臣秀頼との対面から約一年後ですね。この二年後の慶長十九年に方広寺鐘銘事件が起きます。
家光が世子と定まったのは元和年間と言われてます。一般的なのは大坂の陣が終わり家康が亡くなるまでの間ですね。
なお徳川家の家臣団の対立によって起きたといわれる大久保長安事件は慶長十八年四月からの出来事で、慶長十九年一月にはその余波で大久保忠隣が改易されています。
このように世継ぎ争いがあったとされる慶長年間の後半は、豊臣と徳川の関係が雲行き怪しくなってきた時期であり、徳川家内部もごたついていた時期です。
これに加えて世継ぎ争いもあったといわれてますが、ほんとうにそうでしょうか。

江は豊臣秀吉の養女として徳川家に嫁いでいます。そして豊臣秀頼は実の甥です。
俗説では秀忠が恐妻家だったとか、江は秀吉の養女なので権勢があったとかいいますが、豊臣家を養家としていて現当主とも血縁関係にある人物が、この時期に徳川家中で優位に立てるものなんでしょうか。そして横紙破りして無事でいられるものなんでしょうか。この時期の政治情勢に詳しいわけではないけれど、なんか腑に落ちないというか疑問に思います。
養家と婚家との関係が良くなってほしいと思う時期に、実質当主の家康の次の次を誰にしたいとか色々言える立場なんでしょうか。いくら将軍の御台所といっても実質は当主の妻というより跡取りの妻なのだから、あまりわがままを言える立場にはないような気がします。それに秀忠には弟がたくさんいるのだから、自分が徳川家の中で問題起こしたら自分の息子が世継ぎになるかどうかもわからなくなるのに、長男じゃなくて次男がいいとかさらなるわがままとか言えるんですかね。
仮にそういう判断ができないくらい江が莫迦な女だったとして、実際問題を起こした場合そのままにしてもらえる立場なんでしょうか。
この時期に江が自分の意志を通そうと何か問題を起こすことができた、という発想は、家光が三代将軍になったことがわかっている後世の人間じゃないと思わない発想なんじゃないか、と私は思います。
でも世間はこのようには考えてないんですよね。それが当たり前なんですかね。

あと主観ですが、秀康や忠輝を嫌っていたといわれる家康より、西の丸の鴨の逸話がある秀忠のほうが長幼の順を重んじているような気がしますがどうなんでしょう。井伊直孝が当主になったのも家康の指示だったとするとなおさらそう思うというか。神君家康公を悪く言いたくない後世の人の後付けなんじゃないかという気がします。

さらにその後の話です。跡継ぎと決まったあとの家光と忠長の差は明確です。官位なども、忠長が勘違いする余地のないくらい差がついてます。結婚相手もそうです。元和九年に忠長は結婚しますし、家光の正室となる鷹司孝子が江戸へ下り輿入れしますが、そのときの年齢がね。
家光20歳・鷹司孝子22歳。忠長18歳・織田久姫(昌子)10歳。
なんという次男坊差別って感じなんですけど。まだ子供つくらなくていいからと言われているようなもんです。そして家格も、かたや公家の中でも格の高い五摂家の姫、かたや血縁とはいえ外様の小大名の姫と、差があります。
そして家光の結婚相手を決めたのは江です。これは福田千鶴さんや藤井譲治さんの本にもあるように、一次史料で確認できる事実です。忠長は史料があるかどうかは知りませんがそうだといわれています。
江が忠長を偏愛していたといいますが、偏愛していて次男坊差別するんでしょうか。ここから兄ではなく弟を後継者にしようとしたという説が成り立つんですかね。

福田さんの『江の生涯』には江が家光の結婚相手を探している状況が書かれています。めぼしい姫に打診して、縁起のよくない要素のある姫を候補から外して、結婚相手選びに頑張っていることが見て取れます。途中病気にもなりますが、回復すると再びお相手選びに取り掛かります。こんなに息子のために行動している母親が、その息子を嫌っているとは思えないです。嫌いな人のためにそこまでしないですよ。
どうでもいい話ですが、『江の生涯』を読んでいるのと同時期に、息子のために母親が嫁選びをする場面が登場するドラマを見てました。息子の望みどおりではないですが、母親なりに息子のためを思って必死になっている姿を見てますと、江の、息子の花嫁選びもこんな感じだったんじゃなかろうかと思ったものです。結果的に江の選んだ女性は家光のお気に召さなかったわけですが、そのために江の苦労も否定されるのは悲しい話です。

それから岐阜市の栄昌院にある初宛の江の手紙があります。そのうちの一通は、家光が忠長の屋敷に御成になる際、初から祝いの品が届いたことへのお礼の手紙です。それについてはここでも記事を書いてます。
あの文をどのように解釈するのか。人それぞれ違うと思います。実際『近世女人の書』の作者は江が忠長を偏愛していたことを疑わず、忠長の屋敷への御成を喜んでいると解釈してますし。
でも素直に読んだら、兄が将軍で弟が家臣であることをまるで疑っていない人の文のように私には思えます。上記の記事でも書いている通りです。江が喜んでいるのは「将軍も大名も自分の息子であること」だと思います。姉の初宛なのだからとりつくろう必要もないでしょうし、素直に喜んでいるのだと思います。

もちろん江が忠長を大事にしている話もあります。福田千鶴さんの『江の生涯』の219ページには江が忠長の移転の吉日を金地院崇伝に問い合わせをしていることが書かれています。家光の場合は老中が行なっているのを、忠長の場合は江が行っていることについて、福田さんは「江がいかに忠長を鍾愛していたかを示している」と書いてます。まあそのとおりなんですが、でも忠長は将軍連枝とはいえ一大名です。家光は将軍だから老中が幕府のお仕事として行なっているわけで、一大名のために老中が動くわけないじゃないですか。そして忠長の父親は大御所(実質当主)でしょう。そして正室はこのときは十三歳、まだ子供です。母親がやるしかないんじゃないでしょうか。鍾愛の証拠にはなっても偏愛の証拠にはなりません。福田さんは偏愛しているとは言ってませんけどね。でも偏愛の証拠だと勘違いする人もいそうなので付け加えました。

私としては「江は二人の息子をふつうにかわいがっていた」というのが結論なんですけど、世間ではまだ江は忠長を偏愛して家光を嫌っていたという説が広まっていて、がっかりします。特にツイッターとかで家光好きの人が、江は家光のことを嫌っていたから好きじゃないと言っているのを見ると、悲しくなってきます。そんなことないのにとリプライしたい気分になります。しませんけど。

他にもまだまだ言いたいことはありますが、ひとまずはこの辺で。
続きを近々upできればいいんですが、予定は未定です。でも、なんとかがんばってみます。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは

あまのかるもさんの私見、じっくりよませていただきました。
妄想だなんてとんでもない。上手く言葉にできない私の思いを
代弁(勝手にすみません)していただいたようですっきりしました。
私自身、知識があるとは胸を張っていえるものでありませんが、
それでも未だにある「江の偏愛説」はとても寂しく思います。
だからこそ江が悪女、嫉妬深い女性で次男溺愛・・・という通説が
今年は違ったイメージで描かれる(いい意味で主人公補正が効く)と
大層期待をしていましたが、結局は期待はずれでした。
『今年の大河は無茶苦茶に描いている』」事が基本になっているので
「史実の江さんはちゃんと嫉妬深いんだよねー」と思いこむ
人が増えてしまいそうで。
ツイなんかで江をよくないようにつぶやかれると反論というか
悲しくなってしまいますね。
KAKA
2011/09/26 12:15
こんばんわ。興味深く読ませていただきました。
江の偏愛の俗説が定着したのはドラマの影響なんだろうと思っていたんですが、もしかして江戸時代から?と初めて気づきました。徳川にとって不都合な織田・豊臣という背景を背負っている江は、貶めたい存在だったという事でしょうか。それが現代も当たり前に残っているのは恐い気がします。
家光ファンの方が江を嫌うのは残念ですね。家光が好きならもう一歩踏み込んで、江との関係を自分なりに考察されたらいいのに、と思います。
さい
2011/09/27 22:46
KAKAさま
こんにちは。主観だらけの記事をよんでくださってありがとうございます。
代弁だなんてそんな、お恥ずかしいというか光栄というか。自分の胸にたまっている思いを吐き出しただけの記事に対して、そう思っていただけるなんて嬉しいです。。
江の偏愛説は一次史料にはないのに、まことしやかに語られるのがどうにも納得いきません。
今年の大河はほんとうに期待はずれでした。私もNHK大河ドラマの主人公だから、今までとは異なる視点・話になると思ってました。まさか自分と脚本家の価値観が違っていて、良い人に描いているつもりが全然そう見えないということになるとは思わなかったです。これならいつもの悪役寄りの描かれ方のほうがましな部分もあります。
通説で広まっている江は、史実ではなく俗説ですからね。大河も変ですけど、だから通説が正しいと思い込んでいる意見を、ついった・掲示板等で見るとがっかりしますね。この記事はそういう発言に対する鬱憤不満をぶつけたものでもあります。
あまのかるも
2011/09/29 23:22
さいさま
こんにちは。主観にあふれている記事をよんでくださりありがとうございます。
陰謀論みたいな言い方は好きではないのですが、江によって、徳川家が滅ぼした豊臣家と縁深いことがわかってしまうので、ある意味めんどうな存在である江の、良い評判は残りにくく、悪い評判は残りやすかったのではと思います。
江戸時代で定着した物の見方は、現代でも根強く残っているように思います。また俗説からさらに憶測が上乗せされて、現代になってから作られた俗説もあるように思います。
家光と江の関係をあえて良い方から見てみようという人はいないのでしょうね。巷で言われている説を何の疑問もなく受け入れるのでしょう。
あまのかるも
2011/09/29 23:25
こんばんは。秋草です。
江が家光と忠長を普通にかわいがっていたという見方にわたしも同感です。
江の国松偏愛説が広まったのは、小説やドラマの影響が強いと私は思います。
私が思うにこれまで江を中心に描いた小説などはあまりないのでは、と思います。最近になって大河ドラマの影響で小説がかなり出版されている気がします。わたしの初見ですと四・五年前に読売の夕刊小説で登場した宮尾さんの『美女いくさ』です。これ以前の江が登場する小説といえば、やはり春日局を描いたもの
になってしまうと思います。春日局を中心に描くなら、やはり江は国松を溺愛した「悪女」、春日局の「ライバル」として描かかなければ、お話にならないんでしょうね。(ここが一番の山場ですし)
それに江のようにほとんど史料が残っていない人物を描くとなると、国松偏愛説は小説家にとって格好のネタになってしまうんだと思います。
秋草
2011/10/02 23:54
秋草さま
こちらもこんばんは。
主観にあふれた記事を読んでいただきありがとうございます。同意していただけてうれしいです。
近年の江の偏愛説の内容は、たしかに小説やドラマの影響大ですね。ただ偏愛説自体は古くからある俗説です。昔の小説でも見かけます。
『美女いくさ』が出る前に江が主人公の小説と言われて、私がすぐに思いつくのは、永井路子さんの『乱紋』と、杉本苑子さんの『月宮の人』(ただしこれは江と和子のW主人公)ですね。それから私が最近まで知らなかったのが吉屋信子さんの『徳川秀忠の妻』。それ以外は便乗本を除くと、メインキャラとして登場するのはあっても主人公と言えるのはなかったと思います。昔は偏愛説はあってもイメージとして定着していなかった感じです。
春日局がらみのは、大河ドラマの『春日局』のときに出たものが多いと思います。その影響で一般的に悪女としての江のイメージが広がったように感じます。以前から俗説に基づいた物語はあっても、春日局のライバルとして描かないとお話にならなくなったのは、このドラマが決定的だったのではないかなと思ってます。
偏愛説が小説家の格好のネタというのは、おっしゃるとおりですね。悪女のほうが物語になるんでしょうね。
あまのかるも
2011/10/09 01:39

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