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zoom RSS 『江の生涯を歩く』を読んだ後で、お江さんを思う〜その2

<<   作成日時 : 2011/08/20 01:50   >>

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桐野作人著『江の生涯を歩く』を読んで思ったことを書く、第二弾です。
前回からはだいぶ間があいてしまいました。そのせいで書きたいことを忘れてしまいましたが、本に付箋だけはついているので、それを見ながらぼちぼち思い出してみます。

◆江の生まれた場所
今までは小谷城というのが定説でしたが、ここ最近、岐阜ではないかと言われるようになってきているようです。『江の生涯を歩く』によると
・小谷説の史料…『織田軍記』(別名『総見記』)
・岐阜説の史料…『濃陽志略』『安土創業録』
ということらしいですね。私としては正直な話どっちでもいいです。真実であれば。
ただ岐阜生まれとすると、市は、江を産むまで不安だっただろうと思います。もし男の子が生まれていたらどうなっていたでしょうね。やはり殺されていたのでしょうか、それとも出家ぐらいで済んでいたでしょうか。そういう意味では女の子で運がよかったのかもしれません。

◆江の名前
小宮山楓軒が著した『垂統大記』という書物に「幼名徳」という記述があるとの文があります。『垂統大記』がいつごろ成立した書物なのかわからないので、なんとも言えません。江はもともとの史料が少ないので、いろいろな説が出ること自体が大事であると思います。

◆幼少期の居場所
色々説があるようです。岐阜・伊勢上野・安濃津・清洲と紹介されてますが、可能性の高い低いは言えても、決め手に欠けるようですね。なお私の勘だと、ずっと岐阜か、岐阜→安濃津の、どちらかのような気がします。あくまでもただの勘です。根拠0です。

◆最初の夫・佐治一成
福田千鶴さんの説を取り上げるのはいいんですけど、福田説を採用すると、江と一成との年齢差が広がることに触れてほしいと思います。
また福田さんの本のときも少し思いましたが、大野城に行ってないという根拠はどこから来るのでしょうか。後に秀吉が天下統一すると、大名の妻を京・大坂に留めておくようにとの触れがでるようですが、統一されていない群雄割拠の時期であれば、夫の領地に赴かなかったら結婚したことにならないと思うのは素人考えでしょうか。
またp88に人質として秀吉の元に置いたとありますが、祝言挙げずに婚約レベルだったら、人質としての意味がないように思うのですが。福田さんも似たようなことを書いてましたが、なにかあったら破談になって終わり、でしかないような気がするんですけど。

◆二番目の夫・豊臣秀勝
秀勝との結婚時期について、『兼見卿記』の記述による天正十三年十月説が急速に定説化しつつありますね。
丹波亀山城に江がいたかどうかについて、「大名夫人は人質として天下人の城下に置かれるのが原則」として江がいた可能性を否定してます。小田原の陣のときの触れより前にそういうことをしてたのでしょうか。私は詳しくないのでわかりませんが、わざわざ触れがでたということは、それ以前は行なっていなかったと思うのですが、どうなんでしょう。
甲府城に江がいた可能性については、秀勝が甲府城主になったのが小田原の陣以降なので、江がいた可能性を否定しているのは納得です。

◆三番目の夫・徳川秀忠
p105〜106で秀忠恐妻家伝説が生まれる背景に、結婚当初の身分の違いを指摘してます。江は秀吉の養女として、秀吉家臣である家康の嫡男・秀忠に嫁いだという事実です。
でも私はそういう上下関係は秀吉生前のみだと思ってます。秀吉の死後は、秀吉の養女であることが徳川家中で大きな権威を持つとは思えないです。そもそも秀吉の権威を重んじていたら、徳川幕府なんて成立しないでしょう。
もちろん軽んじられるという意味ではないです。絶対的な権威とはなりえないという意味です。少なくとも秀吉の死後は、横紙破りが可能な地位ではないと思います。

◆大坂の陣
江が冬の陣の後の和睦をことのほか喜んだことが紹介されてます。『難波戦記』と『元寛日記』からの引用です。「御喜悦ましまして」や「御喜悦斜めならず」などの言葉に江の喜びが伝わってきます。だからこそ翌年の夏の陣の結末が、江にとってどれほど辛いことだったかが察せられます。

長くなってきたので、ここでまた一旦切ります。続きは後日。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは
お久しぶりです。

江が岐阜生まれ?の件
江の手紙二通が岐阜市歴史博物館に来たので、見に行ったのですが、
そのついでに博物館にある濃陽史略を確認したところ
バッチリ載ってました。
農陽史略は尾張藩士が編纂したものだそうですね。

江は小谷落城前に生まれたのなら満年齢53歳で死去でしょうが落城後に亡くなったなら満52歳の可能性もあるのかなあと考えています。

話は変わりますが
岐阜市歴史博物館の江の手紙の紹介文は
俗説にとらわれてなくて
とても良かったです。

から
2011/08/21 20:30
からさま
こんにちは。お久しぶりです。
江の手紙と濃陽史略が見れたんですね。よかったですね。尾張藩士の編纂ということは地元の役人が公式にちゃんと調べたのでしょう。やっぱり岐阜生まれなのかしら。
たしかに落城後誕生だと翌年の可能性もあります。現状の資料だと享年57歳(満56歳)説と54歳(満53歳)説だったように記憶してますが、後世の編纂などで、一次史料ではなかったと思います。
岐阜市歴史博物館の江の手紙の紹介は俗説に基づいてなかったんですか。それはよかったです。そういうのが増えてほしいですね。
あまのかるも
2011/08/22 00:14

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