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zoom RSS 『江の生涯を歩く』を読んだ後で、お江さんを思う〜その1

<<   作成日時 : 2011/06/13 01:37   >>

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そのうち読みますと言っていた桐野作人著『江の生涯を歩く』を読み終わりました。
感想を書こうと書き始めたものの、感想というより私見垂れ流しになっちゃいそうなので、タイトル変えました。江と周辺の人々について、今の自分の頭にある考えをまとめてみようと思います。

その前に『江の生涯を歩く』について軽く説明・感想です。
内容的には、縁の地について説明・見解・訪問記・写真等でまとめられてある感じです。
この手の内容は類書もありますが、筆者の見解がそれぞれ異なっていたり、その本にしか載ってない史跡があったりで、複数持っていても損はしないです。
通説・新説を紹介する際、各説の提唱者等がわかりやすいのがいいと思いました。

さて、ここからは、『江の生涯を歩く』を読んで、いろいろ考えたことについてのまとめです。長くなりそうなので二三回ぐらいに分けるつもりです。
まずはまえがき部分から。

◆崇源院の読み
この本では「そうげんいん」でルビふってますが、私は「すうげんいん」だと思ってます。理由は、
1)松平定勝の院殿号の変更との関連
松平定勝が寛永元年に亡くなった当初、崇源院殿と付けられたのが、後に宗源院殿と改めているそうです。その改名が寛永三年の江の死と関係あるのかは史料がないのでわかりませんが、少なくとも墓所のある寺は、江の院殿号がきっかけで寺号を改めているというので、おそらく院殿号も関係あると思います。
そして改名する際は、字としても読みとしても違うものにしようと意識すると思います。崇源院が「そうげんいん」と読まれるものとされていたなら、"宗"源院に変えなかったのでは、と考えます。
ちなみに三省堂『漢辞海』第二版によると、「宗」は漢音「ソウ」呉音「シュウ」で「崇」は漢音「スウ・シュウ」だそうです。
2)「崇」の読み間違い・書き間違いの多さ
「崇」の字は、ふつうに「ソウ」の読み間違い・「宗」との書き間違いが多い字です。
崇道天皇(早良親王)を祀る神社がソウドウ神社になった過程を考察している論文が載っている本を読んだこともありますし(ここに少し感想書いてます)、崇の字がある単語を宗に変えて検索すると、間違いが出てきます。グーグルさんが「もしかして崇○○」と聞いてくるときもありますからね。「崇」と「宗」とを混同した結果「崇」も「ソウ」と読んでしまうのだと思います。
だから「そうげんいん」と書いてある書物があっても、単なる読み間違いかもしれず、正式にそう呼ばれていた証拠にはならないと思います。

ついでに『東照大権現祝詞』ですが、私は専門家じゃないので正確なところはわかりませんが、個人的主観では「俗説まみれの春日局が書いた文書には見えるが、ふつうに江戸城で仕えていた奥女中の書いた文書には見えない」です。春日局の書いた手紙とか残ってますが、ふつうに気配りのできるふつうの女性の手紙です。『東照大権現祝詞』みたいな、中の丸孝子や井上正就についてろくでもないことを書くような人には思えないです(私は江ファンなので、江に関する記述についてはノーコメントとします)。もし『東照大権現祝詞』が本物だったら、私が斎藤福という女性について過大評価していたということなんでしょう。

◆江の江戸下向に関する毛利家文書の記述
毛利輝元の手紙の中に、江が「もし別腹に子どもができれば、これから気の障りになってしまう」云々と言ったということが書いてあるそうです。現代語訳しか載ってないのが残念です。
感想がいろいろ浮かぶので、整理してみます。
1)江がこのように言うというのは、夫をめぐっての嫉妬もあるでしょうし、家中での自分の立場についての不安もあると思います。「やっぱり女ならそう思うでしょうね」という感じです。ただ後者のようにも考えられるということは、豊臣秀吉の養女として嫁いだことは、秀吉生前ならばともかく、秀吉の死後は特に江に有利には働いてない、ということを示しているように思います。
2)よく「江が嫉妬深くて秀忠に側室をおかせなかった」という言い方されますが、別にそんなことないように見えます。釈文ではないので断言できませんが、側室がいることが前提としてあって、そのこと自体が気の障りになるわけではなさそうです。江に秀忠の女関係を止める力なんてなかったんだと思います。
3)この手紙は「江が〜と言ったので、江を下向させたいと家康が言った」という内容です。一番に江を下向させたかったのは、江自身というよりは家康・徳川家なんじゃないですかね。
豊臣政権から公に諸大名に命じられていることを、女の個人的都合を理由にまぬがれようとするなんて、なんかねぇ、ずる休みの言い訳っぽくないですか。
江が下向したがっていなかったとは言いませんが、仮に彼女が一番下向したがっていたとしても、徳川家のためにならなかったら、家康たちはそのことを表に出さないような気がします。江が下向したがっていて、自分達にも都合がいいから、秀吉の養女なのをいいことに、家康は横紙破りしてやろうとしたのではないかと思います。
理由は江をなにかあったときの人質・切り札的に使うために、京ではなく江戸に置いておこうとしたと思ってますが、考えすぎでしょうかねぇ。

これもついでなので付け加えたいと思います。
私が江ファンとして否定したいことは、江が嫉妬深いということそのものではないです。それについては「逢ったことないから知らねー」としかいいようがないです。基本エピソードも少ないですし。人間ですから悋気することもあるでしょう。
私が疑問視しているのは、嫉妬深さゆえに行なったと言われている良からぬこと(秀忠に側室をおかせなかったとか静と幸松に危害を加えようとしたとか長丸を殺したとか)です。
もし実際にそのようなことを行なっていたら、現実に江の身に何らかの報いがきて、今伝わるような安定した晩年ではなかったと思います。後継者争いの件も同様です。徳川家中をひっかきまわすようなことをしたら、例えば大阪の陣のきっかけは鐘銘事件じゃなくて江だったかも、などと想像することがあります。

素人の想像・推測なので、なにか間違いあったらご教示お願いします。
とりあえずはここで切ります。続きはまた今度。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
あまのかるも様
毛利家文書の解釈、私も同様に考えています。
「下関市史」に載録されている翻刻全文を入手しましたが、恐らく大坂城に入って重陽の節句に秀頼に対面した際の内容と思われ、三点の秀吉遺命に関わる言い訳のようなものがなされた事が記されています。まさに、「ずる休みの言い訳」のようなものです。
それと、この書状により、ほぼ確定したのが、子ゝ姫が江の実子であり、伏見生まれである、と言う事です。もし家康の言が嘘で、この時江戸で妾腹に子ゝ姫が誕生していれば、前田家との縁談の段階で何らかの記録として残っていたはずです。この手の噂話は、当時の人が逃すはずはありませんから。
江は、下向の際、もう少し頻繁に京と江戸を往き来できる、と考えていたのかも知れません。それが叶わぬと知った為に、千姫輿入れの際、無理をしてでも上洛したのではないでしょうか。
話は変わりますが、今回の大河の登場人物は、数え10歳からは大人が演じる事が定着し、秀忠だけ子役だと、かえって違和感の出る状況です(笑)。それにしても、あんなクールで皮肉屋の長丸殿を、家康が跡継ぎに選んだ理由は、一体どうするつもりやら・・・。
武江
2011/06/13 22:45
武江 様
文書の全文読まれたのですね。さすがですね。
遺命に背いたことを言い訳しておいて、さらに違反しそうなことをするなんて、家康は無法過ぎですね(笑)。
なお江の発言部分ですが、色々な人を介して伝わっているなので、元の発言のニュアンスと違ってるかもしれません。ですので、私が記事で言ったことや子々姫の件は、可能性は高くなっても、まだ確実とは言えないように思います。
慶長4年の時点では、政治の中心が京大坂から江戸に移って、自分が上洛する必要がなくなるとは、江は夢にも思ってなかったのでしょうね。

大河ドラマは…長丸くんは元服まで子役で、昔のNHKお得意の子役→本役切り替わりが見たかったです…。跡継ぎの理由はまた説明セリフ一行くらいで終わりそうですね。
あまのかるも
2011/06/16 02:37

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