かとりぶたを側に置き

アクセスカウンタ

zoom RSS 京の旅・2011年2月 <その5>養源院

<<   作成日時 : 2011/03/31 01:16   >>

面白い ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 4

遅くなりましたが、京都旅行記・二日目になります。

二日目は養源院からスタートです。
三十三間堂のバス停から養源院へ。ここへ行くのはこれで三回目ですが、午前中に行くのは初めてです。
画像

養源院は浅井長政の追善供養のために茶々が創建し、火災で焼失後、江が再建した寺です。
過去に行った記事もあります。
画像

画像


特別拝観だからなのか、外に受付の小屋ができてましたよ。
画像


中は撮影禁止なので、写真はありません。
ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ここは自由に中を見ることができません。いつもガイドのおばさんが、障壁画や仏像・位牌等のある部屋を、説明を録音したデッキを持ち歩きながら拝観者を案内するやり方なので、好きなものを好きな時間見られないんですね。生説明は血天井の説明のときだけですが、またこの説明がやけに淡々としていて、微妙に怖さをますんですよね〜。長い棒で天井を指し示しながらおばさんが「ここが顔です。ここが腕で、こう曲げていて、胴がこうまっすぐあって〜」と(細かいところは記憶が曖昧なんで適当ですが)、こんな調子で淡々と血の跡を説明するのが、暗い廊下の下で、うわ、怖ええ、という感じなんですよ。
で、今回も案内がおばさんか住職らしい男の人かな、と思っていたら、なんとっ! 若い女の子がガイドやってるっ! すごい、さすが特別拝観と思いました(笑)。
しかしあの淡々とした説明は若い女の子にも受け継がれておりまして、やはり養源院だなと思いました(笑)。
拝観できるのはいつもの展示部分に加えて、別室に設けられた茶々・江・秀頼の肖像画や秀吉のゆかりの品々でした。
しかし、これら特別公開の品々をじっくり見たいなーと思っても、すぐに次の部屋に案内されてしまい、それでもねばって見ていても、さりげなく女の子が部屋を出て行くよううながすので、ほんとに面倒くさかったです。じっくり見れないので、迷惑だろうなとは思いつつ、案内を二周半ぐらい聞きました。お寺の都合があるからこういう見学でも仕方ないとは思いますけど。

初めて直接見る肖像画についてですが、(伝)淀殿の肖像画は、顔の部分がほんとうにほとんど見えない状態でした。それと比べると(伝)崇源院の肖像画はそんなに劣化してなかったです。そして秀頼の肖像画は(たぶん)賛もあって状態もきれいでした。
それにしても、やはり(伝)淀殿と(伝)崇源院はこれで合っているのか疑問です。(伝)淀殿は書付だかに残っているようにお市の方でもいいような気がしますし、(伝)崇源院は出家姿が気になります。
あるいは、またただの思いつきですが、入れ替えてもいいのかな?とも思います。つまり(伝)淀殿を江に、(伝)崇源院を茶々にというふうにです。
養源院のゆかりの女性は、残された言い伝えから言えば、市・茶々・江・和子だと思いますけど、この中で一番出家していそうな人(夫に先立たれたままの人)って茶々だけですよね。一般的には茶々は出家していないと言われていますけど、実際そうだったのでしょうか。私はこのあたりの記録についても詳しくないのであてずっぽうなんですが……。
こんなふうに実際に誰なのかははっきりしないとはいえ、これらの肖像画が江とその身内の誰かの絵と思うと感慨深いです。もっと長い時間見たかったです。

堂内を二周半した後、後ろ髪引かれる思いで外へ出て、境内の裏手のほうへ供養塔をお参りに行きました。
まずは市の供養塔から。
画像

立派な供養塔です。
画像

説明書きが手作り感あふれているのが、なんとも養源院らしくてほのぼのしてしまいます。堂内の案内も不便なんですけど、カセットデッキを持ち歩くところや血天井の生説明が、有名寺院とは違う、素人っぽさ・手作り感をかもし出しているのが、なんか好きなんです。

そしてここは何の建物なんでしょうね。わからないけど手を合わせてきました。
画像


そして江の供養塔。
左の墓石は歴代住職のもののようです。
画像

近くに寄ります。
画像

画像

かなり立派で大きな供養塔です。和子が建てたそうですが、しかし江の子供達はほんとに大きなものを作らせますね。
供養塔の前で手を合わせながら、どうかお江さんの生前をしのばせる新発見がありますようにと祈ってきました。

いつまでもいるわけにもいかないので後ろ髪引かれる思いで供養塔を後にし参道へ。
山門近くに毘沙門天と弁財天を祀った社がありました。写真は弁財天のお社です。
画像

画像

しかし相当長く見学していたように思ってましたが一時間ぐらいしかいなかったですね。養源院はこじんまりしているからでしょうね。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
面白い 面白い 面白い
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
お待ちしておりました^^

秀吉死後の茶々については、学者先生の伺っても「秀頼の後見があったから出家は許されなかったのでは…」なんて言われていますが、今川の寿桂尼さんのように出家しても幼主を補佐することは珍しくないことのようなので、やはり出家の可能性はあると思います。

雁金屋の注文票で、茶々や寧が初や江と違い、控えめな色のもののみ注文していたとのことですので、寧に倣っていてもおかしくないですよね。
出家は分かりませんけれど、確実に落飾はしていたのだろうと私は思っています。

茶々と江の肖像画が反対ではないか…というのは、実は私も考えたことがありました。でも今の茶々像はやっぱり市かな…。ト書きに崇源院か長政卿室かと書いてあるということは、この二人の肖像があったことに間違いはないのかなあ…?とおもうのですが。
茶々姫は、肖像画を作らせたとしたら秀吉の死後かな…と思いますので、鮮やかな着物を着た肖像画は、世間のイメージと反しますが、ありえないように思います。

つらつらと想像ばかりで申し訳ありません。
紀伊
URL
2011/03/31 01:52
紀伊 様

コメントありがとうございます。レスが遅くなりすみません。
茶々が秀吉死後も出家していないと断定できる史料はないみたいですね。
実は出家していたのではと、私も最近思うようになってきてます。

たしかに、茶々と江の肖像画が反対の可能性よりは、書付を優先したほうがよさそうですね。書付を否定する材料はあまりないでしょうから。
ただ、長政の肖像画がなくて市の肖像画があり、秀頼の肖像画があって茶々の肖像画がないというのも不思議な気もします。(それともかつてあったのかしら…)それに徳川時代には、茶々と言えなくて市とした可能性もあるような気もするし…。色々考えてしまいます。
いずれにしても伝淀殿像が茶々ではない可能性は十分あると思ってます。明確な根拠があるわけではないですけど。むずかしいですね。
あまのかるも
2011/04/05 01:18
またまた失礼します。

養源院には長政の肖像画はあります。しかも二枚。
一枚は久政と言われているもののようなのですが、もともとあった長政肖像(伝久政)が烏帽子を被っていなかったらしく、追贈されるにあたり和子が書かせたものが束帯姿の長政肖像だそうです。

秀頼の肖像画は他と比べてこじんまりとしていて異質な感じがしました。
茶々姫の肖像画があったとすれば、こんな感じで描かれていたのかなあ…とぼんやり考えていました。
時勢でつくれなかったのかもしれません。ようやく供養が出来るようになった時には、女性はともかく秀頼、となったのかも…?
でも、あってほしいと思います。

「伝茶々姫肖像」は赤い着物を着ていらっしゃるので、私はやはり茶々姫でないように思います。茶々姫が自ら寿像を作らせるとしたら秀頼が大きくなってからでしょうし、するとその頃茶々姫は寧と共に赤系の衣装を避けていたといいますし…
後世に作られたものだとしたら、やはり夫に先立たれている方ですから若いころの衣装で描かれるのは不自然なんですよね…(出家姿か、落飾姿か…)

養源院の肖像を研究されている方は(その方も「伝茶々姫像」は市のものと推測されています)、普通夫婦の肖像画は向かい合うようになっているはずなのに、市と長政の肖像が同じ方向を向いているので、その対面に秀吉と茶々の肖像画があったのではないかと推測されていました。

本当に、養源院の肖像画は謎だらけです。
紀伊
URL
2011/04/05 03:52
紀伊様

コメントのレス、まとめて書いたので、養源院の記事と高台寺の記事のところに分けてします。(たくさん書きすぎて文字制限にひっかかってしまいました(笑)。)

◆養源院
あーなるほど長政の肖像画はあるんですね。だとしたら、伝淀殿像はやっぱり市だろうと思いました。ちょっとぽっちゃりで、頭の輪郭がへんで、顔の状態が良くないのを考えると、有名な持明院のと比べてそんなにかけ離れていない気がします。
秀頼の肖像画があることを考えると茶々の肖像画があってもおかしくないと思いつつ、言われるとたしかに秀頼像と、伝淀殿像・伝崇源院像は雰囲気ちがいますね。
そして伝崇源院像ですが、江と断定していいのか今も疑問に思います。やっぱり出家姿が気になるのです。平安時代なら病気をきっかけに(夫が生きていても)出家することはありえるけれど、江戸初期もそんなことあるのかしら…。または生前出家してなくてもそのような姿で描く例があるのだろうか。その辺りの例が出てこないと、伝崇源院像が江だと言いにくいです。
◆光雲寺
過去帳の記述について、江が和子の養母であるという説の根拠になりうるとは思ってないです。言葉足らずですいません。紀伊さんのコメントを見て改めて考えましたが、先に書かれた人の名前は皇族のようだったので、実家の人々は後回しにしたのかもしれません。
あまのかるも
2011/04/09 03:46

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
京の旅・2011年2月 <その5>養源院 かとりぶたを側に置き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる