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zoom RSS 徳川家の女性で火葬された人物

<<   作成日時 : 2011/01/09 12:51   >>

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以前このような記事を書き、じょうよ様より、お大の方とおそらく千姫も火葬されたと
コメントにて教えていただきましたが、その後も徳川家の女性で火葬された人物を確認
いたしました。

・西郡の局
家康の側室で次女督姫の生母です。ソースは『徳川将軍家墓碑総覧』57ページです。
ネットでもGoogleブックスで見ることができます。
それによると慶長十一年に伏見でなくなり、その地の本禅寺に埋葬されたそうですが、
火葬され分骨されているそうです。

・お勝の方
家康の側室の中でも有名な方の一人です。五女市姫の生母で水戸家の徳川頼房の
養母でもありました。
『徳川実紀』で和子が江の法要に香銀を贈った部分を読んでいて偶然見つけました。
お勝は寛永十九年九月十七日になくなるのですが、九月廿日の下りに
(新訂増補国史大系・新装版『徳川実紀』第三篇288ページ)
「またけふ英勝院尼鎌倉由比が濱にて荼毘ありしとぞ」
とあります。荼毘なんですから火葬です。

けっこういますね、徳川家の女性で火葬された人。
お江は増上寺に埋葬された人々の中では唯一火葬されていたのでしょうが、徳川将軍家の
正室・側室の中で、ではないようです。

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あまのかるも様
ついにお邪魔してしまいました。
『嚴有院殿御實紀』承応元年十二月六日には、4代将軍家綱の母宝樹院(於楽の方)が護国院(東叡山)にて荼毘に付された、と有ります。これも「御遺命によてなり。」だそうです。
都内の某区郷土資料館サイトの「崇源院」の説明文に、徳川の家族中唯一人火葬、としか解釈しようの無い文章が有り、伝通院や宝樹院の例を引き合いに、確認のメールを出した事があります。先方からの回答は、言葉足らずは認めながらも、文章の流れで「増上寺に葬られた」徳川の家族では唯一人と受け止めてもらえるはず、とでも言いたげな内容で、その上「『徳川実紀』の記述が正しいか否かについては、当方では判断しかねるというのが現状」などという文言も有った為、しからば訂正は無用の事也!と、ちょっと大人気ないメールを返してしまいました。そのせいか、現在も以前と変わらぬ説明文のままです(苦笑)。
京都の鳥辺野などでは、古くから藤原道長始め多くの貴族が荼毘に付されているので、京の文化圏で育った江が、荼毘を望んでも、全く不思議はないはずです(英勝院は、系図通りなら太田道灌の血を引く関東人で、父祖の地扇ヶ谷に葬られてますが)。甲子夜話の話も肯けますし、於大の方も伏見で死去し江戸で葬送ですので、かなり日が経っています。そういえば以前、京の都のk2さんにも、普通だと思う、とあっさり片付けられました(笑)。
武江
2011/01/10 18:33
武江 様
ようこそいらっしゃいました。
お楽の方の情報ありがとうございます。その他興味深いコメントをいただいて嬉しいです。
私はあいにく素人ですので、これからも、もしなにかありましたらご教示ください。よろしくお願いいたします。

某区って増上寺があるところですか?(笑) 回答がいかにもお役所仕事ですね。武江さんの怒りのメールのお気持ちわかります。公共機関ならもう少し正しい情報を伝えることに気を配ってほしいですよね。
火葬された人々はみな江戸初期・家綱の治世までに亡くなっています。その頃まではあえて土葬にする発想が薄く、ふつうに火葬を希望する人のほうが多かったかもしれません。
ちなみに、私は平安時代が好きなせいもあり、身分の高い人は火葬だと逆に思い込んでいました。増上寺ではお江以外土葬と聞いても、神君家康にあやかって、仏式の火葬ではなく神道の土葬を選択したのだろうと思っていたので、ネット検索の噂でとても驚いた次第です。
あまのかるも
2011/01/11 02:16

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