かとりぶたを側に置き

アクセスカウンタ

zoom RSS 江戸東京博物館・大河『江』関連講座『市と浅井三姉妹の生涯』(おまけ追記あり)

<<   作成日時 : 2011/01/31 01:46   >>

面白い ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 4

先日27日に江戸東京博物館で、大河ドラマ『江』の関連講座が開かれました。私も申し込みをして、講座を聞きに行きました。

その前にまた特別展を見に行きました。また行ったのかといわれそうですが、はい、また行きました(笑)。できれば来月5日以降にもう一回行きたいですね。そうすると展示品をすべて見ることができます。
江の文は展示替えされてました。今は、忠長の邸へ家光の御成りがあったときに初が贈った祝儀と文に対する礼状に変わってます。散らし書きになっている文のほうです。実物見ると、やっぱり散らし書きって面白いと思います。よく読めたな、とも思います。
講座の開始時間に間に合うように、基本的には前回見てない展示のみ見ました。市や茶々の肖像画はなくなってました。長政の肖像画は本物が来てました。他に印象に残っているものをいくつかあげます。
醍醐寺の炭取は、なんかレジの籠みたいな形だと思いました。
高台院の消息・木下延俊宛で、高台院が延俊経由で細川忠興に物を渡そうとしているのが、延俊と細川忠興の関係を示唆していて面白いです。そして泔杯台があるのを見て、泔杯は平安時代の調度だけれど、戦国時代でもまだあったんだなとも興味深く見ました。
江の肖像画もパネルになってました…。そして医光寺の像、ほんとに江のかな。海津局かもしれない。
春日局の消息。かなり気配りしている感じ。ほんとに東照大権現祝詞を書いた人かしら。
東福門院入内図屏風は立派なものでした。思わず牛車を見てどこに和子がいたのかと考えたりしました。
千姫のものらしい袈裟も見れました。ゆかりの品はあるだけで嬉しくなるので、江のがなぜないのかと思うと寂しいものがあります。
そしてなぜ督姫の像が出るのでしょうか。大して親しくないと思うけど。

駆け足で特別展を見たあとは、講座を聞きに行きました。人がかなりいました。定員四百名はそろったのでしょうね。
印象に残ったことを簡単にですが書いていきます。
初めは長浜城歴史博物館の太田浩司さんの講演。「大河ドラマを見ていることを前提に話します」なんておっしゃってました。
・琵琶湖の読み。当時は「びわこ」とは言わなかったということです。地元の人は「うみ」で通じたはずだと。他には「びわのうみ」「あわうみ(淡水の海という意味)」「におのうみ(カイツブリという水鳥のいる湖という意味)」など。ドラマでは「近江のうみ」と言わせたとか。
・長政と市の婚姻時期についてはかなり詳しく話してました。ご自分の永禄四年説と大河で採用された小和田哲男さんの永禄十一年説を対比させてました。そして万福丸がドラマに登場しなかったことでいろいろな人から「なんで出ないの」と聞かれたそうです。婚姻時期によって万福丸の生母が変わってくることを説明したあと、「だから永禄四年にしとけばよかったのに」。お気持ちはわかります。
・北近江が交通の要衝であることについても説明されてました。だから織田信長も浅井長政と同盟を結ぼうとしたと。そしてそういう重要な土地から浅井三姉妹が生まれ、歴史の重要な局面にいることになったのだと話していました。
・福田千鶴さんの『江の生涯』は暴露本だとのことです。面白い例えだと思います。
・茶々の死に場所も実はよくわかっていないそうですね。有力なのが山里丸だということらしいです。
・江の名前について触れてました。福田千鶴さんの「江与=えど」説はどの方も支持されますね。
・当時は女も正座しない話(あぐらか立膝)をして、なんで韓国ドラマではちゃんと再現していて日本の時代劇ではしないのか、と話されてましたが、私もそういうのを見てみたいなあ、と思いました。
・講演は1時間の予定なのに、江が生まれるまでの話で30分以上経ってました。最後の説明は駆け足で話されてました。しかも13分オーバーしてました。
その後は10分休憩のあと江戸東京博物館の齋藤慎一さんとの対談。
お二人とも同じ大学の同級生らしいです。
・特別展の企画の依頼が遅くて、準備に一年かかってないらしいです。すごく大変だったそうです。
・江は史料も遺品もなくて、出品予定のリストを作るにもともかく周りの人物から固めていかないといけなかったとか。
・齋藤さんが、肖像画など没後に作られたものには、作った人の亡くなった人へのお弔いの気持ちが込められている、ということを何度かおっしゃっていて印象的でした。
・江が火葬された件について、お二人ともわかりませんね、なぞですね、と言い合ってましたが、甲子夜話の逸話は知らないようですね。今思うと講座の後でお知らせすればよかったと後悔してます。
・太田さんがこの講座を通じて言いたかったことは、「大河ドラマが間違っていてもこちらに文句は言わないでくれ」だそうです(笑)。考証をちゃんとしていてもドラマの演出のためにわざと嘘をつくことがあるからとのことです。

おまけ追記。

急いで書いてブログにあげたので最後少し抜けていました。大したことではないですが自分の記録用に。

講演が終わったあとは齋藤慎一さんに一つ質問をして、会場を後にしました。

その後は、ちょっとだけ時間があったので、また渋谷のNHKに行きました。
大河ドラマの撮影は、たぶん大野城で、江と佐治一成の場面でした。いつのまにか結婚していてびっくりでした。佐治さんは引きの場面しかなく、顔を見ていないので、どんなだったか感想は言えません。その場にいた人に教えてもらいました。桜の花っぽいのが舞っていて、戦支度の足軽が遠くにいたけれど、一成は普通の格好だったので小牧・長久手の戦いの直前くらいですかね。
着いてしばらくして休憩になってしまい、再開は閉館以降だったので、せっかく行ったのに、と、がっかりして帰りました。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
面白い 面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
医光寺の木像が海津局では、との説、なるほど!と思いました。
三好の祖直政の生母ですし、浅井直系の女性ですし、生涯を考えて木像があっておかしくないですね。医光寺ですし。

市の輿入れは…結局どないやねん、といつも思います。
茶々姫は万福丸の供養もしているので、同母兄かなあ…と思うこともあるし、嫡男だから総領娘として異母兄を供養するのは特に不自然ではないといわれるとそうかなあ…と思うし(苦笑)
太田先生が永禄4年説なのに…というツッコミは私も含め各所でなされていましたが、やはりいろいろ難しいのですね。人間関係?は大変です。
とりあえず、市の輿入れがいつであろうが最近茶々姫の生年は揺るがないなあと確信してきたので、新しい論拠が出てくることをゆっくり待ちたいと思います(現状はなんだかんだで状況証拠がほとんどなんですよねえ…)。
紀伊
URL
2011/01/31 02:47
紀伊さま

江のものと伝わる像が出家した姿というのは、やっぱりひっかかるんです。医光寺もまずは三好家のゆかりの寺ですし。根拠については紀伊さんのおっしゃるとおりです。江よりは海津局のほうが条件にあっている気がします。
市の輿入れ時期は、私にはどの説が正しいのかまったくわかりません。ただ、万福丸の生母や茶々の生年について、遅い結婚説は、相反する二つの説の片方じゃないと成立しなくなるけど、早い結婚説はどちらが正しくとも成立するので、その点は早い結婚説のほうが有利みたいですね。茶々の生年もそうですが、新情報が出てくるといいですよね。
人間関係といえば小和田さんについて「別に仲が悪いわけじゃないですよ!」と講演で太田さんが必死でフォローしていたのを思い出しました(笑)。
あまのかるも
2011/02/02 08:09
10年くらい前、初めて医光寺を訪ね、崇源院木像をお参りした際、当時入院(後におなくなりになった)ご住職の奥様とお話したところ、木像は桂昌院として伝来してたもので、真言宗としては違和感はないが、ご住職が木像の容姿から桂昌院とは違うと思い、養源院の崇源院画像等を見て調べた結果、崇源院木像としたという話を伺ったことがあります。もし、ご住職が海津局についてご存知だったらまた別の結果になったかも知れません。かなり前のことなのでうるおぼえですいません。奥様もご住職亡き後、別のところにお住まいだそうで、確認出来ずすいません。情報まで。

私も海津局については詳しくなくすいません。
ダイナゴン
2011/02/11 20:27
ダイナゴン様

はじめまして。情報をご教示くださいましてありがとうございます。
元々は桂昌院という伝承だったのですね。実際の木像が江ないしは海津局ならば、どうして桂昌院という伝承になったのかが不思議ですね。木像が江ならば徳川家縁の女性ということで、海津局ならば大奥に仕えていたということで混乱したのだと思いますが…。
お話を伺いますと、やっぱり元の伝承どおり桂昌院でいい、という可能性もあるように思いました。桂昌院なら間違いなく落飾してますから出家姿の像が残っていてもおかしくないと思います。
江の可能性もあると思いますが出家姿というのがひっかかります。海津局だと夫や息子に先立たれているので落飾していてもおかしくないと思います。
木像が海津局かもしれない、というのは、ただの私の思いつきというか、状況証拠による素人の推測です。こちらこそ気を使っていただいて申し訳ございません。ありがとうございます。私に無知な点やいたらないところがあると思いますが、今後もなにかありましたらご指摘・ご教示お願いいたします。
あまのかるも
2011/02/13 12:19

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
江戸東京博物館・大河『江』関連講座『市と浅井三姉妹の生涯』(おまけ追記あり) かとりぶたを側に置き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる