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zoom RSS 『江の生涯』の感想 その七(名前・その他)

<<   作成日時 : 2010/12/12 17:33   >>

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今回は『江の生涯』を読んで思った感想でうまくまとめきれないものを順番にあげて
いきたいと思います。うまくまとまらず、すいません。

ちなみに、私は江についての悪い通説をほとんど信じておらず、特に信じていないのが
後継者争いの件です。私は後継者争いの事実はなかったと思ってます。以下はそういう
人がこの本を読んだ感想ということで読んでください。

まずは江の名前から。『太閤素性記』では「督」とあるとの話は興味深く思いました。
昔から使われている「小督」は受け入れにくいところがありました。私は平安時代オタク
なもので平家物語の小督局などを連想して、名前と言うより女房名の印象が強いからです。
小がなく「督」だけならふつうに名前としてありえますね。
でもそうすると督姫と字がかぶります。督姫は家康の次女で、秀忠の異母姉です。一般的
には「とくひめ」といわれているので読みは違いますけど。徳川系の史料で「江」が使われて
いるのは、同じ字を避けたからかもしれません。
「江」を選んだのは、近江の「江」でもあり、江戸の「江」でもあり、両方の意味を含めて
なのかもしれません。
ちなみにすごくどうでもいいことですが、秀忠は生まれが遠江なので「とおつあはうみ
(浜名湖のこと→遠江の語源)」の人と「ちかつあはうみ(琵琶湖のこと→近江の語源)」の
人がくっついたんだなあって思ってます。

「通称」+「子」で即席の諱を作るというのは初めて知りました。
「江子」の読みですけど、「通称」+「子」なんだから、だったら「ごうこ」でよくない?と
思うのは安直過ぎるかしら。公家の日記のおかげで達子が「みちこ」なのは確実ですね。
公家がこさえる諱は読みをひねっているのが多くて困りますね。

一番なるほどーと思ったのが「於江与之方」の読みですね。与が変体仮名の「と」なので
「おえどのかた」と読むとあったのには、「そのまんまじゃない!」と思いました。
居場所名+奥方への敬称ということで、ごくありふれた呼び名ですね。
「おえよのかた」と言う読みは前からあんまり好きじゃなかったです。正直言うと「これ
名前なの?」という感じだったので、ドラマで使われる時以外は無視してました。この説
のおかげで「おえよのかた」を完全に無視してもいいとわかって、気分いいです。

そして崇源院の読みです。私は『東照大権現祝詞』はうさんくさい史料だと思うけど……。
素人なんで根拠もないし何も言えませんが、研究者があれを一次史料として使うのが
不思議でならない。あんなことを書く意地悪女が存在するかい、と思いますけどね。
でも私には「そうげんいん」か「すうげんいん」か判断できません。「すうげんいん」で
よくない?とか安易に思いますけど。

ちなみに彼女の名前をなんと書いたらいいか、福田さんならずとも悩むところです。まあ、
大河ドラマも始まるし、私は「江」「お江」でいこうと思います。「おごう」「ごう」でもいいん
ですけれど、福田さんの言うとおり、ひらがなだと文章の中に埋没してしまいそうで使い
にくいですね。「督」はまだ定着してないので、基本的にわかりやすさ重視の私としては
今のところ使えません。将来的には使うかもしれませんが。
(私に向かって「ごう」や「督」を使うのはかまいません。私が使わないという話です。)

二度目の結婚について。この本では天正十四年ごろとしています。
しかし『浅井三姉妹の真実』(小和田哲男編・新人物往来社)の岡田正人さん担当の章に
天正十三年十月十八日説がほぼ確実であることが書かれてあります。一つ突っ込み
いれると「小吉御祝言」とだけあって相手が江かどうかわかりませんが、もっとも時期と
経歴からいってほぼ間違いないのでしょう。
推測としては福田さんもほぼ合っていたことになります。

ちなみに気になるのは小吉秀勝は、於次秀勝が亡くなる前はどういう諱だったんだろうと
いうことです。やっぱり「秀勝」なのか、違うのか。於次秀勝が亡くなるのが天正十三年
十二月十日。江との結婚が、小吉が「秀勝」を名乗る前かもしれないので気になります。

福田さんは江の化粧料がどこにあるのか知らないようです。
江戸における江の化粧料は、今の神奈川県横浜市青葉区あざみ野や川崎市麻生区
王禅寺のあたりだそうです。このあいだこんなニュース↓もありました。満願寺というのは
青葉区あざみ野にあるお寺です。
徳川家次期当主が語る「地域の歴史」、秀忠と江姫ゆかりの満願寺で講演会/横浜
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101206-00000006-kana-l14

江の書状について思ったこと。初と比べると江は大雑把な人のような気がします。
本文中に載っている書状は、一度紙の最後まで書いてから足りなくて、元に戻って前の
余白に書いているみたいに思えます。

家光の誕生日を他人に言うなと江が言った話について。金地院崇伝が稲葉正勝に家光の
誕生日を問い合わせたときの回答者は春日局です。春日局もそして家光も、江の死後に
なっても江の意向を尊重して金地院崇伝に秘密厳守を守らせようとします。よく言われる
ような関係だったら、江が死んですぐに、ふつうに誕生日公開を解禁しそうな気がします。

西の丸で忠長が鴨を鉄砲で撃った話。お江擁護で言ってくれるのは珍しいので新鮮でした。
たしかに秀忠の態度は大人気ない。

元和八年は江は病気だったんですね。いつも元気というわけではなかったんですね。
というか元和八年は宇都宮城釣天井事件の年ですね。秀忠が日光参拝の帰り、本多正純の
居城の宇都宮城に泊る予定が、「宇都宮城があやしい」との話を聞いたため、「御台所が
病気」という知らせが来たということで宇都宮城に行かなかった話。
御台所が病気という知らせはてっきり嘘だと思ってましたけど、ほんとだったようですね。
知らせが来たのは『徳川実紀』によると元和八年四月十九日だそうです。

そして家光の嫁探しは面白い。必死さが伝わる(笑)。息子の嫁探しに必死な母親が、
どうして疎んじたという話になったのでしょう。
「容姿端麗な女性を江が物色していたというのは、他の実子と同様に家光に対しても母と
しての愛情を示した話として理解できるかもしれない」
実子云々はともかく、ほんとうにそうです。福田さん、もっと言ってください。

江が忠長を将軍にしようとしていたとする通説を否定していたのは嬉しいです。
でも、将軍の座を争ったという事実を全否定しているわけではなさそうですね。家光が
江の実子ではなく忠長は江の実子であるとして、その忠長に将軍になりたい意志があった
としているのは、後継者争いとその結末としての忠長自刃という構図を残しているように
見えます。
「家光自身は忠長を助けたいとの思いが強く」と書くなら、助けたいと思える状況を
考えてみてほしいところです。後継者争いをしていた過去があるなら、あまり助けたく
ないのではないでしょうか。
私は、忠長が荒れた理由も後継者争いとは関係ないと考えているので、その部分は少し
残念です。

江に仕えていた人の名前がわかるのは助かります。もっと史料が見つかってほしいです。

江の時代の大奥は雰囲気がゆるいというのは、昔読んだ本で見たことがあります。江が
表に出ることがある話は『落穂集』に載ってたんですね。あと女房が老中をつかまえて
「香の物を買ってきて」と頼んだ話があるはずなんですけど、どの本なのだろう。
そして秀忠は規則をがっちり作る厳しいお方ですね。

呉服の注文帳の引用は面白いです。江が武家の正室として衣服を配る勤めを果たしていた
ことがよくわかります。舅・夫・娘婿・義弟・娘・孫・息子そして自分と大変そうだと思います。
でもこれを見ると珠姫も勝姫も家光も和子もみんな実子のように思えます。やりとりの
記録がないと言いますが、これらを贈っているのだからなんらかの文があるはずなのに。
文がないのはなくなったからと考えてはくれないのでしょうか。
あと「あまこさま」「あまごさま」について、福田さんは和子の母とする妙徳院かもしれないと
してますが、それはどうでしょうか。
私は徳川一門の女性の誰かのような気がします。でもちょうどいい人が見つからないです。

江は小柄な模様が好きだったようです。江の好きなものが知りたかったのでこの情報も
ありがたいです。

しかし秀忠って恐妻家だったのでしょうか。むしろ亭主関白系のような気がします。
西の丸の鴨の話もそうですが、衣装に気を配るという逸話もなんか細かくて自己主張
激しそうな感じ。

とりとめのない感想ですいません。
次回で『江の生涯』の感想は終わるはずです。『江の生涯』終章の内容についてです。

※次の感想(その八・終章)はこちら、前の感想(その六・最初の結婚)はこちらからどうぞ

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
衣装の調達や家光の奥さん探しについての話は大変興味深かったですね。

奥さん探しにお江が関与していたのは知っていましたが、詳しく書いてある本に出会ったのは初めてでした。美人の娘に目を付けたり、丙午だからやめにするなど
家光に対する気配りも見えます。なんでこの話が取り上げられないか疑問ですね。

秀忠って世間のイメージとは違ってかなり強気な人だったと思います。家康死後の政治に対する姿勢もそうですし、数多くの逸話からも気弱さを感じられません。忠長の発砲事件もその一つで、かなり強気に大人げないこと言ってますね。でもこの話が歴史本で紹介されると「恐妻家の秀忠が妻お江に対して珍しく強気なエピソードである」みたいに書かれるんですよね。恐妻家であること前提で話が進んでいるのが理解できないです。「この逸話を聞く限りは秀忠が恐妻家だったとは思えない」と書けばいいのにと思ってしまいます。

私はいろいろ調べてみてこの夫婦の性格イメージが一般に語られているものとは真逆になってしまいました。
恐妻お江も嫌いではないんですが・・・・・やっぱり違うな、と思ってしまいます。
から
2010/12/13 00:45
から 様

『江の生涯』には他の便乗本にはない情報がたくさん載っているのがいいですね。 

奥さん探しは今まで言及されても、春日局に対抗して等の説明で語られることが多かったように思いますが、この本のおかげで素直に、息子のために動いていたという事実を実感しました。 

秀忠について、一字一句違わず、からさんの言うとおりだと思います。現状では恐妻家のイメージが強くて、他の逸話が語られるときもその影響を受けちゃってますよね。秀忠の逸話では、自分の倫理観と言うか主張を、他人に左右されず、常に前面に打ち出して行動しているように見えます。でも側室を置かない話と後継者争いの話だけは別人のようです。他の逸話と比べるとそれだけ浮いているように感じます。 

小説やドラマならば勝気なお江も(極端な悪女にされてなければ)嫌いではありませんが、この夫婦の実像は一般的なイメージとは違うように、私も思います。
あまのかるも
2010/12/14 06:38

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