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zoom RSS 『江の生涯』の感想 その六(最初の結婚)

<<   作成日時 : 2010/12/11 10:43   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 0 / コメント 4

今回は最初の結婚に関わる説についての感想です。

まずは福田さんの説をざっくりで説明します。
・佐治一成と江の婚約は秀吉が決めたのではなく、織田信長の主導で、かなり前から
決まっていた。
・佐治一成と母のお犬は実の親子ではない。
・一成の父と言われる信方も、実際は兄で、兄の死後、養子として後を継いだ。
・佐治一成は小牧・長久手の戦いで豊臣方についたため、戦いののち織田信雄によって
大野の地を没収された。
・佐屋の渡しの出来事はおそらくなかった。
・江は大野に輿入れしていない。
このような感じです。

これらの説については、例えば信長が決めたというのは、なるほどと思いました。
(もっとも福田さんが初めて、というわけではないと思います。ヤフーの知恵袋にも
たしかそんなことを書いている回答者がいましたし)
その他の説にしても、それ自体は興味深い説と思いました。
江が大野の佐治一成のところに実際に輿入れしていない説にしても、そのような
可能性があることは検証に値する話だと思います。
(「江の物語」としてはやっぱり実際に行っててほしいですが)
ですが、これらの説のためにあげられている根拠を確認すると、ちょっと首をひねりたく
なるところもあります。

お犬は信方の死後細川信良と再婚します。そのことについてまず福田さんは、小さな息子
一成の後見人として佐治家に残しておいたほうがいいと思われるのに、そうしなかった
のはおかしいと指摘します。そして佐治一成は信方の息子ではなく弟であるとの説を
取り上げます。それからお犬が婚家を去ったあと、信長は佐治家との結びつきを再び
強めるために新たな当主一成と江とを婚約させたといいます。

この説でもおかしくないような気もするのですが、それにしてもそうすると一成と江の
年齢差が大きすぎやしないかと……。その後の記述で元亀二年(1571年)に一成は
十五歳を超えていたとする推定をしてますが、江は天正元年(1573年)生まれとされて
いるので、少なくとも十七歳差になってしまいます。
年齢と親子関係は定説のままで信長主体の婚約説にしても問題ないはずです。

若くして後家になったお犬を不憫に思って再縁させるのは、子ありでも子なしでもありうる
話です。実の親子関係は再婚しても切れるものではないから、佐治家との結びつきが
切れることを気にすることなく再婚させることはできると思います。
また婚家に子を残し後見人となることと、実家に戻ってその後再婚との二択が、どちらか
にしないといけないという切迫したものではないような気がします。どちらでもいいけど
再婚させることを選んだ、ぐらいの話なのではないでしょうか。それを再婚させたのは
親子の縁が薄いから、つまり実の親子関係ではないと言いたげな説明なのは……ちょっと
飛躍しすぎではないでしょうか。

また、江は大野に輿入れしていない説は、この年齢差だとかなり成り立たないような気が
します。母と養父をなくしたばかりでこれからの身の振り方も不安定ならば、姉達が、
せめて末の妹だけでもしっかりした後見のある生活をさせてあげたいと、婚約の話を進め
ようとしてもおかしくないと思うのです。十六歳の花婿ならば少し待ってからと思うかも
しれませんが、二十九歳ぐらいの花婿ならばむしろ好都合でしょう。

これらの説単独で見ると納得いく話になっていても、これらの説をまとめて組み合わせると
無理がある説明になってしまっているように私には思えます。

そして佐治家の系図の信憑性についてです。
定説の系図を載せる「佐治系図」と鳥取池田家の家臣の系図で一成が信方の弟説を載せる
「佐治幾衛家譜」を主に引用しています。鳥取池田家の系図には他に「佐治所平家譜」も
あります。
「佐治系図」は一成の弟中川秀休の没年を寛永四年にしています。一方、一成の長男の
為成が前田家に仕えた関係で残された前田家側の史料では中川秀休の没年を寛永八年と
しています。その違いを指摘して「佐治系図」の一成の享年も誤りであると福田さんは
言います。
一方「佐治幾衛家譜」と「佐治所平家譜」では一成の没年は不詳とされています。この
ことで、この系図で一成の息子とされる彦左衛門と半右衛門と、父一成とは「音信不通
だったらしい」と福田さんは推測していますが……。
私からすると父の没年不詳というほうがあやしいような気がします。「佐治幾衛家譜」と
「佐治所平家譜」のほうが偽系図っぽいと思うんですけどどうでしょう。父親と交流ぐらい
しなさいよと思いますけどね。もちろんこちらの説のほうが正しい可能性もあると思います
のでなんともいえませんが。
また一箇所がちがうからと言って、他も当てにならないということはないでしょう。信憑性は
下がるでしょうが、簡単に否定するほどではないような気がします。

さらに、江が大野に輿入れせず婚家の没落により破談となったのに、秀吉が江を無理やり
離縁させた説が生じた理由として、福田さんは秀吉の妹朝日姫の離縁話と混同したからと
しています。その際の説明が、朝日姫が再婚後、母大政所の病気のため一旦上洛し、また
岡崎に戻り、再び上洛してそこで亡くなったことをふまえて、「妻が身内の病気で上洛し、
その後夫のもとへ戻ることはなかった」と巷の人々からは見えたとして、それと江の
離縁話が混同したと言います。
…………なんだかなあ。
こんなめんどくさい説明いらないって。
これらの話は秀吉を下げる話なんだから、徳川時代にできたものでしょう。どちらも徳川家に
嫁いだ女性の話で、事実が伝わってなくても憶測で色々作られそうですけどね。
噂広めるのに事実はいらないですよ。かんぐりたい出来事さえあればいい。
あるいは秀吉の生前に既にささやかれていた話だとしたら、江の離縁話が知られたときに
朝日姫の離縁話も引き合いに出されたかもしれません。実際の江の離縁話が円満破談
だったとしても、尾ひれがついて秀吉のせいとかなんとかという話になっても不思議では
ないと思います。
もっともこの場合、実際に江が婚家から上洛していたほうが人目に付きやすく混同しやすい
でしょう。また輿入れしていない場合は、元の婚約話もそれなりに知られていないと噂は
立ちにくいですね。

推測自体は悪くない説でも、根拠や説明が無理しすぎなような気がします。
もっと簡単に考えられないのでしょうか。
ふつうに道なりに歩けるちょっと遠回りの道を通らずに、無理やりまっすぐ道なき道を突き
進んでいる印象です。

この辺りは(この辺りも)私の知識と情報収集力の範疇を完全に超えているので、判断は
できませんが、それでも少し疑問に思うことをあげてみました。
決していちゃもんつけではなく、初めは興味深い説だという感想にしようとして読み返したら、
なんか変だと思うところが色々出てきて、結局批判が多くなってしまいました。
江の実子でない説も最初の結婚についての説も、いろいろな話を一気に取り上げて強引に
つじつまを合わせている感じです。もっと一つ一つ丁寧に検証してほしかったです。

次は、その他まとめきれない色々な感想を並べていこうかと思ってます。

次の感想(その七・名前その他)はこちら、前の感想(その五・他の子たち)はこちらからどうぞ

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
大野関係の話、それこそ私は全く詳しくないのですが、
天正十三年十月十八日に小吉秀勝との婚礼の記録があることを知り、北庄落城から二年半…最初の結婚はあったとしても本当に短かったんだなあと驚きました。
実際に嫁いでいたとしても、城下の屋敷に住んでいたかもしれませんしね。
大野時代についてはぜひもっと検討を重ねられて明らかになってほしいところです。
紀伊
2010/12/11 11:05
紀伊 様

秀勝との婚礼が天正十三年十月十八日説は私も驚きました。『浅井三姉妹の真実』の感想でとりあげようと思っていたんですけど『江の生涯』の感想が先になってしまったので。
今までの江が登場する小説では、大野の結婚時期は長いことが多かったですから、少し妙な気分です。短くても実際に嫁いでいてほしいと思ってます。
そして、文禄元年秀勝と婚礼説ってなんだったんだろうと不思議に思います。秀勝との結婚生活が長いということは、丹波亀山とかゆかりの地が増えるということかしら、などと考えてます(実際に住んでいた可能性は低そうですけど)。
あまのかるも
2010/12/11 12:26
連続ですみません。

文禄元年説は、単純に完子の生まれから逆算しているのかな、と思います。茶々姫も三姉妹で最後に嫁いだとされるのは鶴松の生まれからの逆算なだけですし、記録が見つからないとどうしてもそうなるのですね。

やはり一成との話は、秀吉に引き裂かれたという通説のドラマ性も相まって、「初恋」的なエピソードとして重宝されているのでしょうか。

私はかえって、秀勝との婚姻期間が長かったのだとしたら、秀勝が病死した時おごうは相当堪えただろうな…と考えていました。完子も短い婚姻期間に授かった子どもというより、待望の一子だったのかもしれませんね。
紀伊
2010/12/12 02:37
紀伊様

>文禄元年説 
なるほど。記録がないとどうしても推測になってしまいますよね。

>一成との結婚 
お江メインの小説の多くは、結婚期間も長く、最初の夫への未練が程度の差はあれど描写されてます。やはり初婚と離別のエピソードは印象深く使いやすいのだと思います。

秀勝の病死による心の痛みは、今まで語られていたよりも大きかったでしょうね。今までの書き方だと愛情が育つ前に死んじゃった、みたいな感じでしたから。私も三人の夫の中で秀勝が一番印象薄かったですし。
それなりに夫婦生活が長かったのだから、若後家になって、再々婚よりもやっぱり出家したかったんだろう、とか、秀勝は完子の顔を見れていたかもしれない、とか、秀勝が知行のことで不平を言って秀吉の怒りをかったときはハラハラしただろう、とか色々想像しています。
あまのかるも
2010/12/12 14:34

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