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zoom RSS 『江の生涯』の感想 その五(長丸・千姫・初姫・忠長・正之)

<<   作成日時 : 2010/12/08 08:00   >>

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今回の『江の生涯』の感想は、残りの子供達についてです。
まずは江の実子ではないとする子のうち、残った長丸から。

長丸の誕生について慶長六年十二月三日・江戸誕生の説を紹介しています。『幕府祚胤伝』
『徳川幕府家譜』の記載とありますが、『幕府祚胤伝』の注についてはこの本では触れてません。
『幕府祚胤伝』の勝姫の注に「源流綜貫に蝶丸君、慶長五年十二月誕生」とあります。
参照した元の記録には慶長五年十二月となっていたようです。そして蝶丸君というのは
長丸のことです。『幕府祚胤伝』では長丸は江の子とされているので、勝姫の誕生日との
かね合いで、勝姫と長丸の生まれ年を逆にしたらしいのです。
ちなみに『幕府祚胤伝』は一部ですがネットでも見れます。
Googleブックスの『徳川諸家系譜2』の中にあります。
気になった方はそちらで確認してください。
http://books.google.co.jp/books?id=DZwuduJ19PUC&printsec=frontcover#v=onepage&q=%E9%95%B7%E4%B8%B8&f=false
そういうわけでこの本で『言経卿記』『鹿苑日録』に慶長六年九月に長丸が死去した
記録があるとの下りを見て、やっぱり慶長六年十二月三日じゃなくて、慶長五年十二月
なのかと思ったのですが、その事実に触れてくれません。
「母の懐胎は死没した日時から逆算すれば慶長五年十二月以前であり」と書かれ、九月
十五日の関ヶ原の合戦以降としています。『幕府祚胤伝』の注は見ていないのでしょうか。
『幕府祚胤伝』『徳川幕府家譜』に慶長七年九月二十五日に亡くなったとあり、『徳川幕府
家譜』には享年二歳とあります。実際には慶長六年九月に死去し、享年二歳で慶長五年
十二月・江戸誕生とするとつじつまがあうような気がします。
慶長五年十二月誕生とすると、懐胎時期は266日前が慶長五年三月頃になるのでその前後
です。江も秀忠も江戸にいる頃ですね。

次は、福田さんの説でも実子とされる子供達・千姫・初姫・忠長の順に触れていきます。

千姫の誕生は、『幕府祚胤伝』の慶長二年四月十一日・伏見誕生の説がありましたが、
この本では『言経卿記』の記述から慶長二年五月十日・伏見であるとしています。私も
これはそれでいいと思います。
しかしこのように幕府側の後世の記録と一次史料とのずれがあるために、幕府側の後世の
記録がまったく信用がおけないという印象を受けます。少なくとも一般の読者はそのように
思ってしまいそうです。
ですが、幕府側の後世の記録の信用度が下がった(というかおそらく元々低いのだろう)と
しても方法論は変わらないということは、この本の中で示していてほしかったと思います。
信憑性がより低くても、限られた史料しか存在しなければ、その史料の中の記録を細かく
調べて、記録と検証を積み重ねて真実を見つけるべきです。
想像を駆使して仮説を立てるのも時に必要ですが、だからといって、安易に史料の中の
記録より、自分の仮説を優先して事実として断定していいとは思いません。

この本の中で福田さんは、記録の解釈をかなり変えているように思えます。
例えば家光の下りで、麻布の東福寺に江が、家光が無事誕生した御礼として寄進したこと
について、「江が家光の表向きの母としての役割を十分に演じていた」と書かれています。
珠姫の安産祈願の記録はそのまま受け入れてますが、こちらの記録は「演じていた」と
偽りの記録としています。でもこちらを偽りの記録とする根拠は、福田さんの説の話を
除いたら、どこにあるのでしょうか。
このような恣意的な判断がいくつか見受けられます。手軽に読める新書本とはいえ、いや、
だからこそ、恣意的な事実認定はやめてほしかったです。

初姫の誕生年が慶長七年・江戸か、慶長八年・伏見かについてです。その前の江戸出立
から千姫の輿入れについては、いろいろな出典元を示しながら説明しているのですが、
肝心の初姫出産については史料を示してくれません。慶長七年・江戸説の史料名は指摘
して否定しています。初姫出産の記録は『徳川実紀』にあるのでそう書けばいいと思います。
また京での動向を一次史料で示してくれているので、初姫出産の記録についても
一次史料にあるならば書いてほしいです。
それとも今のところ一次史料の中からは見つかってないのでしょうか。

また江の書状についても紹介してあります。私が読んだことのないほうの文の内容が
載ってました。それが見れたのはとても嬉しかったです。
ただし以前に『近世女人の書』の感想を書いたときに紹介した内容と訳が少し違って
ましたね。おそらく「おひもじ」が誰を指すかで解釈が違うのでしょう。
『近世女人の書』の著者前田さんは女一の宮(のちの明正天皇)とし、福田さんは初姫と
しているようです。どちらが正しいのか私にはわかりません。
養女にやったとはいえ自分の娘に御をつけるのかなとも思いますが、「おひもじ」が
「下り」というのであれば女一の宮はありえないですね。

忠長の誕生日は、資料によりまちまちであることがこの本で示されています。このうち
五月七日は保科正之、十二月三日は長丸と混同したのだと思いますが、ここでも長丸の
誕生日の言及はありませんね。また私は知らなかったのですが、この本によると三月七日
は徳川頼宣らしいので、これで混乱の元ネタは全部わかったことになります。徳川頼宣は
忠長より前に駿河藩主だったので、それで混同したのかもしれません。
慶長十一年六月一日が忠長の誕生日ということになります。
しかしいくら後に自刃したとはいえ、将軍の息子の誕生日の記録がバラバラなのは
どうなんだろうと思いますけど。
でもそれゆえに「忠長も江の実子じゃない」とは福田さんは言ってませんね。珠姫の
三男は誕生日が不明だから庶出子と断定してましたが。

締めは保科正之です。
福田さんの説を要約すると、気に入った女は出自を整えて、正室が認めた女中という形を
とるべきだったのに、秀忠がその手続きをしなかったため、「正室の対面を守り、奥の
秩序を維持するため」静は江戸城を出されて正之を出産することとなったとしています。
しかし、もし夫婦が離れ離れならその手続きをする必要はない、と言っています。
それについてはだいたい同意します。「江の嫉妬心のせいというのは奥の制度を知らない
俗人の考えである」というのも心底同意します。
しかし。夫婦が離れ離れのときに手をつけた女から生まれたのを、珠姫・勝姫・長丸・
家光に当てはめようというのは無茶だと思います。たぶん出自を整えていないから名前が
伝わらないとしたいのでしょうが、静がいることで、後付で出自を整えるのは可能だと
わかるので説得力ありません。
また「夫婦が離れ離れのときに生まれた子」に和子は該当しません。慶長十二年十月四日
の266日前は慶長十二年二月五日です。秀忠は江戸にいます。江も江戸でしょう。例の
妙徳院の女性がいるのでうっかりしたのでしょうが、幕府側の記録に残っていないという
意味では和子も同じです。秀忠が手続きを踏んでいるから江戸城で出産できたとすると
やはり生母の記録はないとおかしいです。
長丸の母の名が残っていないのは長丸が夭折したからだと思います。成長していたら
生母の名は残っていたはずです。
残りの三人及び和子は江の子供だから、存在しない人の名が残るはずはないと解釈したい
けれど、だめなんでしょうかね。

最後に、子供達の結婚相手についての考察にも疑問点をあげたいと思います。
千姫・初姫が実子で、珠姫・勝姫・和子が実子ではないとして、実子は近しい姻戚関係者
に嫁いでいると書かれています。
しかしながらこの説明は成立しません。千姫の二番目の夫は本多忠刻、徳川四天王の
一人である本多忠勝の孫で、家康の曾孫、徳川家と親戚関係もある徳川譜代の家臣です。
江にとっては従姉妹(信長の娘・五徳)の孫ですが近しい姻戚関係者とはいえないでしょう。

ちなみに私も子供達の結婚相手について考えてみました。
長女から四女の結婚相手を並べると、家格が綺麗な右肩下がりだと思います。
長女の夫(一番目)は、元の主筋で、その後対抗勢力
次女の夫は、元同僚で、外様の大大名
三女の夫は、一門の有力な分家
四女の夫は、姻戚の小大名
もしこの中に正室の娘と側室の娘が混ざっていたら、もう少し家格の下がり方がでこぼこ
していたかもしれません。また、五女の和子は入内しなかったら、千姫の二番目の夫の
ような譜代大名に嫁いでいたのかもしれません。

とりあえず江の子供がらみの説についての主な疑問はこんなところです。

福田さんは、江の人柄については、通説をそのまま踏襲した悪妻伝説を否定し、むしろ
自己主張が少ない等の評価をしてくれているので、とても嬉しいのですが、だからと
言って江の子供についての考察の荒さは、素人から見ても、ついていけません。
この本を読み終わったとき「この説を鵜呑みにして、かつ江のことを側室の子供の生母を
抹殺した鬼嫁・鬼母だと言う人が出てくるかもしれない」と思い、憂鬱になりました。
人柄に関する良い評価は無視され、悪い連想だけが取り上げられる可能性は高いです。
人は往々にして自分の見たいものしか見ないものですから。
せめてネットの片隅で、考察の荒いことは指摘しておきたいと思ってここまで書きました。

次回は、江の最初の結婚の説について感じた点を上げます。

※次の感想(その六・最初の結婚)はこちら、前の感想(その四・珠姫)はこちらからどうぞ

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
私も「江の生涯」読みました。このブログは見事に私の言いたかったことをすべて文章にまとめてくださいました。ありがとうございます。

私もこの本を読み終わった時、「この本の子供たちの出生の部分だけを抜きだし、今までの悪妻伝説や家光の生母は春日局説などをミックスして
お江を貶る本や歴史バラエティが制作されるんじゃなかろうな」と不安になりました。何事もないことを祈ります。

世間ではお江は秀忠に側室を持たせなかったとか言われますが、「家女」が生んだ長丸は保科正之の時とは違って、江戸城で誕生してるんですよね。このことから考えると、なかなか男子を生めないお江が秀忠に妾をおくことを認めて生まれた子の可能性が高いと思うのですが(慶長五年の春頃に懐胎したのなら江も秀忠も生母も江戸にいることになりますから)・・・・・いろいろ説があって頭の整理がつきません。

長々とごめんなさい。
から
2010/12/08 17:31
から 様

読んでくださってありがとうございます。
気持ちを代弁していると言っていただけて、ありがたくも光栄に思います。
「この『江の生涯』を読んで私と同じような気持ちになった人がもしいるなら、私も同じことを思い反論もしたいと思ってると伝えたい」 大げさかもしれませんが、そういう気持ちもあってこれらの記事を書いたので、とても嬉しく思い、またはげみにもなります。感想はもう少し続きがあるので、もしよかったらまたご覧ください。

>お江を貶る本や歴史バラエティ
ほんとうにそれが出てくるかもしれないのが一番の心配です。変な形で、この説が広まらなければいいのですが……。私も何事もないことを祈ってます。

>お江が秀忠に妾をおくことを認めて生まれた子の可能性が高い
私もほぼ同じように考えています。
江は秀吉の養女として徳川家に嫁いだので、秀吉の死後は、はばかる必要はない=江を特別扱いにしない、となって、ふつうに侍妾が置かれたのだと思います。この時点では男の子が生まれていないわけですし。
秀忠に定まった側室がいないのは秀忠の意志によるもので、江の意志とは関係ないと思ってます。
あまのかるも
2010/12/09 01:32
今回も大変勉強させていただきました。

私も家光に関しては、この本の説を悪用して春日局説が取り上げられるのではないかと案じています。
春日局が実母なら、逆に乳母として名前が残るはずないのに、おかしな話ですよね…

歴史バラエティや書籍に対する不安、よくわかります。
誰かを持ち上げるために誰かを貶めるとか、視聴者の気をひくためにトンデモ説を持ち出してくるとか、もうたくさんです…
紀伊
2010/12/10 23:04
紀伊 様

毎回読んでくださりありがとうごさいます。素人が勢いに任せて書いているので、おかしなところがあったら遠慮なくおっしゃってください。

春日局が家光の生母説、ほんとうに心配な点の一つです。
私は、生母が乳母になるという発想は、おそらく江戸中期以降、戦前の昭和までの感覚なんじゃないかと思ってます。古代から江戸初期までは、乳母は生母には置き換えられない役目を担っているとみなされていたのではなかろうかと。専門家ではないので断定できませんが。だから斎藤福さんは家光の乳母なので、生母ではありえないと私も思ってます。

>誰かを持ち上げるために誰かを貶める
私もそういうのは嫌です。自分のひいきがそれで持ち上げられていてもいい気分はしません。通説の引き写しのみで良い解釈しているだけっていうのは、褒められているとは思えないです。
あまのかるも
2010/12/11 12:18
あまのかるも様
上記「幕府祚胤伝」の一部、拝見しました。
序文附言を見るに、譜略を忠英に見せられ、その誤りの多さから、自らこの書を編んだ、と言う事のようですね。尤も、千姫の誕生日など、部分的にはそのまま引き継いだみたいですが。
子ゝ姫の誕生地は、譜略を含め、それまでは伏見説が多いのですが、どうやら、独自に江戸下向時期を推論した祚胤伝編者竹尾善筑が、伏見説も誤りと考えて江戸城誕生と改め、以後は、江戸説が増えたものと見られます。福田説で誤解されている、幕府史料の編纂のされ方の一端がうかがえる変更です。
長丸の件など、混乱のもとは、多く善筑に有るようで、おおよその下向時期が判明した現在、やはり子ゝ姫は、伏見で江の実の子として誕生した、と考えるのが自然だと思います。
それでも祚胤伝は、結論に至った史料批判の経緯を記しているので、なかなか役に立ちそうです。近い内に中央図書館にでも行って全文を目にしようと思っています。その前に神保町辺りで安く手に入るといいのですが(鳶魚本の譜略は、古本祭で¥300でした、笑)。
因に、中川忠英(ただてる)は、大河「江」の秀吉が以前NHKで演じた小栗上野介忠順のお祖父さんにあたります。これも福田説とは違い、ご本人は正しい記録を残そうという一心だった、と思うのですが・・・。
武江
2011/01/21 21:51
武江 様

いろいろなことをご教示くださいましてありがとうございます。
子々姫(珠姫)の誕生地は、『幕府祚胤伝』をきっかけに伏見説優勢から江戸説優勢に変わったようですね。興味深いお話に、思わずいろいろと想像をたくましくしてしまいました。
子々姫を江戸生まれにしたということは、竹尾善筑は、江は慶長三年八月に秀忠と同時に江戸へ下ったと思ったみたいですね。六月十一日がどこから出た記録なのかわかりませんが、元の記録が三月と仮定すると、八月下向だと妊娠三ヶ月前後でおそらく当時の人が危険だと考える時期の下向です。それを怪しんで江戸下向後に身ごもったと考え、六月にしたのだろうかと想像しています。
また子々姫の誕生地が伏見とすると、誰が生母であろうと五月以降の誕生はほぼありえないでしょう。父親が江戸にいて江戸でみごもったのに、わざわざ伏見に行く必要はないですから。三月に伏見で誕生・生母は江で問題ないようですね。

それにしても昔の史料が300円で手に入るとは、神田の古本祭って掘り出し物が隠れてるんですね。
中川忠英って小栗上野介のお祖父さんだったのですね。知りませんでした。苦労して記録を書き記した人が簡単に記録を代えると考えるのもある意味変ですね。
江は豊臣家との縁が深いので、特に後世の幕府側の人間からすると、徳川家の子女の生母が江なのはむしろ都合が悪いと思うので、江が生母ではない記録があったらちゃんと残しそうな気がします。
あまのかるも
2011/01/23 01:21
お邪魔します。
秀吉の死後、江を特別待遇する必要がなくなったため、秀忠が側室を置いていた説は、正しい見解だと思います。
但し、家光に関して実父は、秀忠ではないかもしれません。
それは、俗説の家康ではなく、異母兄の結城秀康ないし、家康御落胤説のある土井利勝です。
私がそのように考えたのは、家光の子の綱吉が、水戸黄門のすすめで、兄の子を後継にした話によります。
家光が秀忠の兄の子ならば、歴史書に記載されなかった疑問は、家光の男系が途絶え、紀州徳川から吉宗が入ったことで解決します。
幕府の歴史書編纂は、吉宗以降に行われたため、秀忠から家継の間の歴史編纂は、手を抜いていると見なされます。
その頃編纂された実紀の信憑性が低いのも、権力者の都合で歪んだ歴史が、捏造されたからです。
匿名
2012/08/18 02:01
匿名さま

コメントありがとうございます。
たんなる私見ですが、そのように言っていただけるとありがたいです。
いろいろな意見がありますが、実際の記録と異なる説を取り上げる場合、根拠というか、事実を隠してそのような嘘をつく理由があると、説得力が増すような気がします。
あまのかるも
2012/08/25 18:25

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