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zoom RSS 『江の生涯』の感想 その四(珠姫とその子供について)

<<   作成日時 : 2010/12/04 17:35   >>

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『江の生涯』の感想はまだ続きます。今回は珠姫とその子供についてです。

珠姫の誕生について慶長四年六月十一日・江戸と慶長四年三月・伏見の2説が載ってます。
一般的には『幕府祚胤伝』の慶長四年六月十一日・江戸誕生とされることが多いようです。

念のため懐胎時期を確認すると266日前は下記の通りです。
 慶長四年六月十一日の場合…慶長三年十月十日
  (慶長四年に閏三月があります)
 慶長四年三月の場合…………慶長三年六月
秀忠が伏見を離れた日が慶長三年八月十九日ですので、
・慶長四年三月・伏見の場合は、江が生母でも特に問題はありません。
・慶長四年六月十一日・江戸の場合は、この本では江が生母である可能性を否定してますが、
前回の勝姫の記事に書いたとおり、慶長三年八月十九日から慶長四年十二月の間に江が
江戸と伏見を往復しておらず、ずっと伏見にいたことが確認できなければ、可能性は0とは
言えません。

珠姫に関しては今後の研究の成果次第だと思います。現状の史料では江が生母とされるが、
誕生時期や場所と絡んで疑問視されている点がある、というところでしょう。
私がどうこう言えることは特にありません。
それでもこの本の珠姫たちが江の実子ではない説について、多少の疑問はあります。

勝姫は書き換えてつじつまを合わせた記録が残っているのに、珠姫は本来の記録が残って
いるのはどうしてでしょうか。『幕府祚胤伝』等の幕府側の資料は二人の記録を残す際、
同じ資料を参照しているでしょうから、同じ性質の日付が記録されそうなものです。
その辺も踏まえて、珠姫について「想像をたくましくすれば」と福田さんはもっと早い誕生、
つまり慶長四年六月十一日も書き換えられた記録であるとしておられるのでしょうが、
だとすると慶長四年六月十一日というのはなんのための記録なのかと思います。
無駄な嘘をついたのでしょうか。

珠姫の婚礼に関して、いくつか史料を引用されています。その史料に関する説明がない
ので、一次史料なのかどの程度の信頼性があるのか不明ですが、江以外の生母の存在を
示唆する部分はないように見えます。
もし江以外の生母がいるのなら、なぜ側室の子と公表せず、正室の子としたのでしょうか。
前田家に嫁ぐ娘は、正室の子でなければならなかったのでしょうか。
結婚が決まった慶長五年十月から十一月にかけて、秀忠の娘は福田さんの説によると、
千姫と珠姫(子々姫)と勝姫です。正室の子は千姫のみで、既に豊臣秀頼と婚約済です。
側室の子でも家康の嫡孫なら、前田家としては問題ないと思いますけど。
というか、いないものを求めてもしょうがないような気がします。
関ヶ原前後に家康は多数の婚姻政策をとりましたが、大半が養女なんですから、血が
つながっているだけ前田家は重んじられていると思います。江の娘である必要性は
なさそうです。江の娘と偽る必要もないと思います。
もし江以外の生母がいるのなら、やっぱり無駄な嘘をついているように見えます。

珠姫に限らないのですが、江と子供達との音信が残っていないことを、福田さんは音信自体が
なかったとし、親子関係が淡白と断じています。
そしてそれは実の親子ではなかったからと言うのですが、そうでしょうか。
将軍から当主に下された文は残しても、御台所から当家の奥方に送られた私信は積極的に
保管しなかったと思います。初姫宛のが写しでも残ったのは、京極家には三重の縁がある
(伯母・姉・娘が嫁ぐ)からで、そちらがむしろ例外なのではないでしょうか。
残るかどうかは、その人の性格(筆まめか筆不精か)や、家の文書の管理方法に関わること
であって、実の親子関係を量るものさしにはならないと思います。

私は戦国時代の婚礼のしきたりに詳しくありませんが、武家の輿入れの際に実家の母が
付き添うのは慣習なんでしょうか?
江が金沢まで行かなかったのは親子の情愛が薄かったからなのでしょうか。
千姫入輿に付き添ったのは、輿入れ先の大坂に姉の茶々がいるからだと思うのですが。
豊臣家と徳川家との友好を強調するために、豊臣家と縁の深い江が大坂に行くこと自体に
意味があるのであって、娘がかわいそうだから付き添う、などではないはずです。
(他に完子の件もあるかもしれませんが)
なんの縁もない婚家に、実家の母親がついていっても意味ないと思います。

さらに珠姫の子供についての考察にも疑問があります。
安産祈願について、これも、記録が残っていないのは元々存在しないからと断言している
のも疑問ですが、これについては後述します。
もっと疑問なのは、嫡男の光高が珠姫の実子でないとする説です。
福田さんの説明を総合すると、前田家は別の女性が産んだ男の子を珠姫の子として
徳川家に伝えて、秀忠も実の孫ではないと知っていたけど、偽りの記録をそのまま
受け入れたってことになります。そのように受け取れます。
……そんなことってあるんですか??
どこの馬の骨ともわからぬ女の子供を、徳川家に縁のある子供として受け入れるって
ことですか? (言い方悪いけどそういうことですよね)
そ ん な ば か なーーー!!
って思いますけど、なにか私間違っているでしょうか。
こういう場合前田家がしそうなことは
・正直に側室の子と言う(必要に応じて珠姫と養子縁組をする)
・母子の存在を隠す
・父親を他の前田家の人間にして届け出る
  (嘘ではあるがあきらかになったときの実害は低い)
だと思うんですけど。
なんで偽りの記録を残すという危険なことをしなくちゃならんのですか。
口約束だけで、後で幕府から難癖つけられたらどうすんですか。
上記の三つのうちのどれかを実行して、珠姫がほんとうの嫡男を生むまで待てばいい
話だと思うのですが。

そして安産祈願が残っていないこと=安産祈願自体がないという考え方についてです。
こういう単発の記録は、ある場合は存在していたことの傍証になりますが、ない場合は
存在していなかったことの証拠にならないと思うのですよ。
ない場合は「存在していたかどうか不明」です。
手紙とか進物とか祈願とか香典とか、単発の記録がないと存在自体がないと福田さんは
言いますが、和子の香典のように「あったけど記録していない」ものもあります。
「あったけどなんらかの事情でなくなった」ものもあるでしょう。
それをすべて「存在そのものがない」といるのはどうなんでしょう。

贈答・音信の記録がないときは、記録されないまたは失われたのではなく、そのやりとり
自体がないと断定し、
正室以外の生母の記録がないときは、記録されないだけで実際はいると断定する。
記録の有無の価値が逆なんじゃないか、と思えます。
贈答・音信はそれ自体は単発のものです。基本的には一箇所しか記録されないでしょう。
一つしかない記録がなくなれば、もうその存在を探すことはできません。
生母というのはその人の経歴に属する項目の一つです。長い人生の中で繰り返し折に触れ、
直接的または間接的に記録されるものです。複数の記録をまとめて消すことができるのでしょうか。
この本を読んでいると、その辺の解釈が自分の考えと合わなくて、とても疑問に思います。

今回、私の解釈があっているか不安に思うものが多いです。
なにかおかしなところがあったら、指摘していただけたらありがたいです。
次は、他の子たちについてです。たぶんまとめて書けると思います。

※次の感想(その五・他の子たち)はこちら、前の感想(その三・勝姫)はこちらからどうぞ

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