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zoom RSS 『江の生涯』の感想 その三(勝姫について)

<<   作成日時 : 2010/12/03 00:25   >>

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『江の生涯』の感想続きです。
感想と言ってますが、実際は反論・批判になってしまってます。とはいえしょせん素人、
反論・批判と言える代物ではないでしょう。素人のくせにおこがましいとは思いますが、
一お江ファンが文句を言っている、ということでご理解ください。
もし間違い等ございましたら、ご教示いただけると幸いです。

今回は勝姫についてです。
勝姫の誕生時期及び生母については、この本を読む限り、現状の史料では決め手に欠ける
のでは、というのが私の印象です。消極的な理由で、現状ではお江を生母とする説が有力、
とするのが無難だという感じです。
そこをあえて江の実子ではないと断言するのは、無理やりすぎないか、と思います。

まずこの本の中で提示されている、秀忠と江が離れて暮らしている期間を確認します。
慶長三年八月十九日から慶長四年十二月六日以前
慶長五年七月十九日から慶長六年四月まで
この期間の是非についてはとりあえず問題にせず、このまま受け入れて話をすすめます。
なお、この期間が問題になるのは、珠姫・勝姫・長丸の三人です。

勝姫の誕生日は慶長五年(1600)五月十二日または慶長六年(1601)五月十二日といわれて
います。この本の中では慶長五年五月十二日を支持し、慶長四年十二月に江が伏見から
江戸に下向したということで、勝姫は江の実子ではないと結論づけています。

慶長六年を否定し、慶長五年を採用している根拠として、
・当時のスペイン人セバスチャン・ビスカイノの報告書に、勝姫が江戸から越前へ
輿入れした時(慶長十六年九月)の年齢が十二歳とあること
・新井白石の『藩翰譜』に、越前へ行った時の年齢が九歳または十二歳とあること
をあげています。そして『当代記』『朝野旧聞?藁』を編纂する際は、江を勝姫の生母に
するために生年を慶長六年とするようになったとしています。
セバスチャン・ビスカイノの報告書は一次史料です。確かに慶長五年のように思われます。

ですが、一次史料で怖いのは伝聞間違いがあるということです。
たまたまなのでしょうが、この本に引用されている史料で年齢が実際の年齢と違って
いる例が二ヶ所もあることに気がつきました。
一つは98ページ『多聞院日記』天正十八年正月二十八日条の、秀忠と織田信雄の娘小姫の
婚礼についての記述で、天正七年生まれの秀忠の年齢を十三歳としているが実際は十二歳。
もう一つは125ページ『イエズス会日本報告書』慶長八年(1603)の秀頼と千姫の婚礼に
ついて、文禄二年(1593年)生まれの秀頼を十二歳としているが実際は十一歳。
こういうのを見てしまうと、一次史料とはいえ間違いもあることを考慮に入れる必要が
ありそうです。
後世の記録は、この本の紹介を見る限りは慶長六年説のほうが多いですね。慶長五年説を
採っている『幕府祚胤伝』も享年は寛文十二年(1672)に七十二歳としています。つまり
享年では慶長六年説です。

もう一つ慶長六年を否定する状況証拠的な理由を福田さんは述べておられるのですが……
慶長六年五月十二日とすると懐胎は慶長五年七月前後と書かれています。
(出産の266日前は八月初旬ではないかと思いますが)
慶長五年七月は関ヶ原の前の、会津上杉征伐のため江戸を出る月ですが、それを踏まえて
「臨戦態勢の間に秀忠が女性を伴ってゆっくりしていたとも思えないので」慶長六年生は
「疑念が残る」とおっしゃってるんですけど……。
う〜〜〜ん、こんな理由で慶長六年説を切り捨てるんですか?
東北出張へ行くわけではなく出陣ですからね。戦に行くのですから、再び相見えるか
どうかわからないわけで。特にお江の場合、前の夫は戦病死してますから、出陣の別れが
今生の別れというのを一度経験しているんだし、そしたら夫婦のやることは一つでしょ、
と思うんですが。考えがロマンチックすぎますかね。
それに江の実子は三人だけとすると、秀忠にもふつうに側室がいると考えられるので、
側室・侍妾を戦に伴っていてもおかしくはないと思います。家康はお梶の方を連れて
いたんでしたっけ。
正直言いますと、理由になってねえよ、ってところです。勝姫が江の実子でないと
するのに、なぜ慶長五年に固執するのでしょう。

この本を読む限り、福田さんはわりと恣意的な基準で決め付けて論を進めることが多い
印象を受けます。結果、ある面から見ると福田さんの言うとおりでも、違う面から見ると
矛盾がある、そういうのがいくつかあるような気がします。
状況証拠は多面的に判断したほうがいいのでは、と思うのですが。

公平を期すために書きますが、江が慶長六年五月十二日に生んだとして、秀忠の江戸出陣
の前夜慶長五年七月十八日は291日前になります。排卵日の二三日前にいたしていたと
しても42週を過ぎた過期妊娠になります。近代以前ということを考えるとちょっと厳しい
日数ですが、なくはないという感じです。あと10日のびていたらさすがに無理だと思う
ところです。
(『江の生涯』家光についての記事では正常分娩は出産予定日の一週間後までと書いて
ましたが正しくは二週間後まで、です。該当の記事も直してあります。言い訳するなら、
家光の誕生について検証するのに直接関係なかったから見落としたんですが、ほんと
言い訳です。すいません。お詫びして訂正します)

では慶長五年五月十二日勝姫誕生の場合、江が生んだ可能性はないのでしょうか。
実はそうとも言えません。慶長三年八月十九日から慶長四年十二月六日の間に江が伏見と
江戸を往復している可能性を細かく検証していないからです。
慶長三年八月十九日以降早い時期に江戸に下り、その後再び上洛し、慶長四年十二月
までに再び江戸へ下向した可能性もあります。状況を考えると現実味がないというの
かもしれませんが、やはり史料で居場所の確認は必要なのではないだろうかと考えます。
その検証をしないで、江が生んだ可能性はないと断定するのは早計ではないかと思います。

こんなところでしょうか。明快な反論とは言えませんが、少なくともこの本に見られる
史料のみでは、勝姫が江の実子ではないことを100%裏付けるものはないような気がします
慶長五年で母が江、慶長五年で母が江以外、慶長六年で母が江、慶長六年で母が江以外、
どれも完全に可能性が0とは言えません。
なのになぜ慶長五年で母が江以外に断定するんでしょうね。

私が珠姫・勝姫・家光・和子は江の実子ではないという説に躊躇しているのは、成人して
いる子女で生母の存在が完全に記録から消えるということがあるんだろうかと疑問に思う
からです。母不詳というのと、正室の実子とされて生母の存在が抹消されるというのと
では、似て非なるものがあると思います。
「次女以下の女子を生んだ侍妾は、出産後も女中の待遇のままで過ごすことが多かった」
からと言って、成人した娘の生母の記録が残っていない理由にならないのではないでしょ
うか。家康の次女・督姫の生母の存在は徳川家の記録に残ってます。三女以下も同様です。
またその後の徳川将軍の側室及び子女もきちんと記録されています。秀忠だけ、いるのに
わけありで記録に残さないということがあるんでしょうか。

特に勝姫は嫁ぐ年齢が他の姉妹と比べて比較的年齢が高く、また出戻ってくるため江戸に
いる期間も長く、本人も長命です。夫・松平忠直との関係にしても、忠直にとって叔父の
娘を娶るのに正室腹にこだわる必要はないように思います。
もし本当に江以外に生母がいるなら、色々な人々との係わり合いの中で、記録の中に生母
の存在がもっと見えてもいいような気がします。

『江の生涯』についての感想はまだ続きます。次は珠姫について書く予定です。それから
長丸等他の子供たち、最初の結婚、『江の生涯』の終章について、最後に同意できること
に触れて『江の生涯』の感想を終えたいと思います。

次の感想(その四・珠姫)はこちら、前の感想(その二・和子)はこちらからどうぞ

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
確かに。
何か違和感があるとは思っていたのですが、断定してしまっているところですね。
おごう自身だって、信長との戦まっただ中に生を受けた方ですし。
生母の存在を抹殺する可能性を考えるなら、おごう関連の史料(手紙など)の消失・抹殺も考えなければ公平ではないように思います。
紀伊
2010/12/03 02:07
PS:
こちらのブログを私のブログにリンクを張らせていただいても構いませんでしょうか?
私はおごうに関して本当に知識が弱いので、ぜひ紹介させていただきたいです。

http://ameblo.jp/chachahime-blog/(茶々姫をたどる汐路にて)
紀伊
2010/12/03 02:10
紀伊様

早速読んでいただきありがとうございます。

仮説として紹介してくれていたら、まだ個人的には受け入れやすかったのに、と思ってます。研究論文ではなく読み物なので、問題提起するためには事実として論じるほうがわかりやすいのだろうとは思いますが……。
おごうの手紙が残っていないのは、もともと存在していないから、という感じにおっしゃっているのも、どこかもやもやしたものを感じます。私は、存在していたけどなくなってしまった、そして、まだ未発見のものがどこかに残っていると思いたいです。

当ブログへのリンクについてはぜんぜんかまいませんので、お好きなようにどうぞ。
私としてはむしろ、こんな内容でもいいんですかって感じです。おごうについても偉そうにいえるほど詳しいわけではないので、お恥ずかしいかぎりです。
あまのかるも
2010/12/04 03:01

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